「まるで芸術品」「ゾクッとしました」20歳の武豊が初めてダービーを意識した“消えた天才”…脚にボルトを入れた“不屈の名馬”が復活するまで
「ダービーに手が届くかもしれない」――若き武豊が初めてそう意識したヤマニングローバルは、かつて憧れた名馬たちの血を引く“ゆかりの馬”でもあった。生命を脅かされるほどの骨折によってクラシック制覇は幻に終わるが、脚にボルトを入れた同馬は、不屈の闘志で復活を果たす。長く競馬界を見つめる筆者が、ファンに鮮烈な印象を残した「消えた天才」の蹄跡を振り返る。(全2回の1回目/後編へ) 【写真】「わ、若い…!」武豊20代の貴重写真&オグリにマックイーン、ドウデュースまで「名馬と息合いすぎ」な神騎乗を一気に見る(全20枚)
ヤマニングローバルが武豊にとって“特別”だった理由
1989年の秋、武豊を背に新馬戦から無傷の3連勝を飾り、騎手デビュー3年目だった武に、初めてダービーを意識させた旧3歳馬がいた。 ヤマニングローバル(牡、父ミスターシービー、栗東・浅見国一厩舎)である。 武がヤマニングローバルに惚れ込んだのは、そのレースぶり以外にも、いくつか大きな理由があった。 ひとつはこの馬の血統である。ヤマニングローバルの父方の祖父は、1970年代に活躍し、その頭文字から「TTG三強」と呼ばれた3頭のうちの1頭、トウショウボーイだった。 トウショウボーイは池上昌弘の手綱で1976年の皐月賞を制し、ダービーで2着、菊花賞では福永洋一を背に3着となった。つづく有馬記念で、武の父である武邦彦が乗って優勝している。 「ダービーをはじめとするクラシックの意味を理解して競馬を見るようになったのは、あのころからでした」 武はそう話している。トウショウボーイが2着になったダービーで、武は父が乗ったテンポイント(7着)を応援していた。小学2年生のときだった。父がトウショウボーイに乗るようになると、もちろんそちらを応援した。 このように、武にとって特別な存在だったトウショウボーイと、同じ新馬戦で走った牝馬シービークインとの間に生まれたのが、ヤマニングローバルの父、ミスターシービーである。 ミスターシービーは、1983年、史上3頭目のクラシック三冠馬となった。中学3年生だった武は、この馬が勝った菊花賞を京都競馬場で観戦していた。 その6年後、武は、ミスターシービーの初年度産駒であるヤマニングローバルと出会ったのだ。 「初めて見たとき、毛色こそ異なるものの、顔や皮膚やたてがみなどが、あまりにミスターシービーに似ているので驚きました。それに、すごくカッコいい。乗ってみると、まるで芸術品というか、『ああ、サラブレッドだなあ』と思わされました」 トウショウボーイ、ミスターシービー、ヤマニングローバルとつづく父系が、武にとっていかに特別だったかがわかる。
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