2軍でタイトルも「何の価値もない」 靭帯断裂→脱臼…続いた負の連鎖「ブチブチって音が」
6年目から背番号を「49」に変更…出直しを図った
この怪我が想像以上に長引き、4年目の1軍出場は4月の2試合だけの2打数無安打1盗塁に終わった。「亜脱臼だったんで何とかなると思ったし、戦線を離脱したくないという思いもあったんで、手術せずに保存治療を選択したんですけど、時間がかかりましたねぇ」と天谷氏は悔しそうに話す。何かをつかみかけていたかもしれなかったのが、すべてパーになって、さらに一から出直しという形になった。 山本浩二監督が退任し、マーティ・ブラウン監督体制になった2005年11月の宮崎日南秋季キャンプには参加して復調を目指したが、なかなか状態が上がらなかったという。5年目の2006年は5月5日に1軍登録されたが、6月12日に2軍落ちして終了。2軍では24盗塁で通算3度目の盗塁王になったが、1軍では17試合で8打数無安打だった。 「あの年は5月に上がった時も2軍のオリックス戦で3三振した日に1軍って言われたと思う。足と守備で、ということだったのでしょうけど、他の先輩の方が、状態がよかったなかで、僕が1軍で申し訳なさがありました。マジで底の状態で呼ばれたって感じでしたからね。結果も(8打数無安打で)散々でしたし……」。2軍で盗塁王になったことも「何の価値もないですよ」とむなしそうに振り返った。 2007年の6年目シーズンから背番号が69から49に変更となった。「怪我が多いから球団から変えろって言われたんです。肩が抜けたりを繰り返したりしていたんでね。候補の番号はいくつかあったんですけど、その中で49を選びました。とにかくピッチャーの番号が欲しいと思った。野手のイメージがあまりない番号がいいんじゃないかと思ったんです。49を前につけていたのは(ジョン・)ベイル(投手)だったんでね」と心機一転だった。 「本当は13番とか16番をつけたかったんですけどね。(2009年ドラフト2位の)堂林(翔太)が13番をつけた時はかっこいいなって思ったし、(巨人時代に13番だったロベルト・)ペタジーニもかっこよかった」と笑う。実際、この背番号変更で少し流れが変わった。「49」でも怪我にはつきまとわれたものの、再びいい方向にも進みはじめたのも「49」になってからだった。
山口真司 / Shinji Yamaguchi