2つの短歌に見る津波巨大想定受けとめ方の違いは? 矢守克也・京都大学防災研究所教授
『大津波 来たらば共に死んでやる 今日も息が言う 足萎え吾に』 『この命 落としはせぬと足萎の 我は行きたり 避難訓練』 これらの短歌はいずれも、南海トラフの巨大地震に伴って大津波に襲われると想定された高知県黒潮町に暮らす方が、巨大想定に対するご自身の気持ちを歌ったものだ。しかし、両者には大きな違いがある。前者には、強大な津波の脅威に対する絶望とあきらめが、後者には、それでもそれに立ち向かっていこうとする強い気持ちが表現されている。2つの受けとめの間に見られる違いを、どのように理解したらよいだろうか。
性質がまったく異なる2つの想定が混在
さて、災害の想定を適切に受けとめるために、心しておくべき非常に大切なことがある。それは、想定には、性質がまったく異なる2つの想定が混在しているという事実である。第1の想定は災害(自然現象)に関する想定であり、第2の想定は被害(社会現象)に関する想定である。 このうち、前者については、私たちが想定を知ったことが実際に起こることに影響を及ぼす可能性はない。想定を知った今も、知らなかった数年前も、それとは無関係に南海トラフ付近の地殻運動は粛々と進んでいる。この意味で、第1の想定は、「当たるか当たらないか」、そのどちらかである。 他方で、後者の被害想定については、想定を私たちが知ったことによって、この先何が起きるかが大きく変わる可能性がある。被害は、自然現象と違って、私たち人間の反応や社会の準備によって変化するからである。「何10メートルもの津波が来るだって。もうあきらめた、何もしない」。このような反応を示す人が増えれば、最悪の被害想定よりもさらに悪い結末に至る恐れも、むろんある。
想定の数字は、私たちの力で、今から変えていくべきターゲット
逆に、大きな揺れを感じたらすぐ逃げようという意識をもつ人が増えれば、あるいは、家具固定や耐震化のとりくみが進めば、犠牲者数は大幅に減少する。なぜなら、犠牲者の想定数は、たとえば、「東日本大震災では×%の人が揺れの後20分以上避難しなかった」といった多くの前提-しかも、私たちの努力によって変更可能な前提-に基づいて計算されているからだ。 要するに、被害想定については、「当たるか当たらないか」ではなく、「(人間の側が)変わるか変わらないか」が問われている。被害想定は、一般市民、自治体、専門家を含めた私たち全員の、今からの対応次第で、いい方にも悪い方にもいくらでも変わる。被害想定は、悲観的にせよ楽観的にせよ、「そのような未来が待ち受けているのですね」と政府や自治体の試算をそのまま受け入れるようなものではない。想定の数字は、私たちの力で、今から変えていくべきターゲットである。 もうおわかりであろう。冒頭で紹介した2つの短歌の違いは、まさに、この意味での「変わるか変わらないか」の分岐点を見事に表現しているのだ。津波想定が人びとを「来たらば共に死んでやる」の方向に向けるのか、「我は行きたり避難訓練」の方向に向けるのかによって、来るべき南海トラフ巨大地震は、まったく別のシナリオを描くであろう。