元全日本キックチャンピオン石川直生「全盛期の自分を超えたい」引退後も挑戦し続ける理由とは…(前編)
――それはひどいですね。 石川:脳震盪を起こし完全にKO状態。リング上で「こんなんで休んでちゃいけない」と瞬間的に立ちあがりましたが、意識朦朧とした状態で4ラウンドKO負け。 その次もタイの選手と戦って肘で切られて、30針ぐらい縫いました。半年ぐらい休まなきゃいけない大怪我でした。 こんな状態で試合の継続は不可能。でも僕はどうしても試合がしたかった。僕はなんとかやりきりたいと思った時、上層部が色々話し合ってくれて、タイのルンピニースタジアム(タイのムエタイ専用競技場)で試合をすることが決まりました。 ――ムエタイの殿堂「ルンピニースタジアム」での試合はどうでしたか? 石川:僕にとってタイに行くのは、ちょっとトラウマがありました。母の訃報を聞いたのがタイのバンコクだったからです。バンコクのあの独特の湿気と匂いと暑さ。あれが嫌だった。 だけど、ここで人生を変えるためには1人で行くのは試練なのかもしれないと考えました。 タイでは基本的に自分1人で体重を落とし一生懸命頑張りました。その結果、試合はヒザ蹴りで僕が勝ち、自分で人生の流れを変えたわけです。 そして日本に戻り、2008年1月4日にスタートした「NAOKICK試練の7番勝負」は、2009年1月4日のルンピニーランカーと戦い、KO勝ちで終えることができました。 ――試合を終えた時、どうでしたか? 石川: リング上で「俺は今年、キックボクサーとして大晦日のリングに上がります」と宣言。 ――2009年12月31日の「Dynamite!!」の出場を口にしたんですね。 石川:そうですね。K-1ではなく、キックボクシングでやりたかった。 ――キックボクシングとK-1のルールの違いとは何でしょうか? 石川:キックボクシングは相手を抑えてのヒジ打ちや掴んでヒザ蹴りなどの首相撲があります。これがK-1ルールではありません。僕は首相撲があるキックボクシングが強かった。 K-1ルールだと僕の得意な攻撃が封じられました。パンチが苦手だった僕は、K-1ルールに慣れなければいけなかったので、ボクシングを死ぬほど練習しました。 <後編に続く> 【プロフィール】 石川直生(いしかわ なおき)1979年4月18日、東京都生まれ。1999年1月24日、ニュージャパンキックボクシング連盟でプロデビュー。2005年11月、33年ぶりに復活した全日本スーパーフェザー級王座決定トーナメントに出場。2006年1月4日、前田尚紀に勝利し全日本スーパーフェザー級王座を獲得。2008年1月から「NAOKICK試練の七番勝負」を開始、戦績5勝2敗。2009年11月のKrushライト級グランプリ2009準決勝の”狂拳”竹内裕二戦は、石川のベストバウトとして語り草になっている。2014年4月引退。現在は64年続く家業のクロコ事業と20年続けたキックボクシングの経験を活かしたダイエット事業、Krushエバンジェリストとして大会の解説席から後輩たちにエールを送る。
取材・編集/大楽聡詞 文/#ミライ