一条天皇から三条天皇へ、そのとき道長や彰子は? 譲位劇を時代考証が解説!
「私は生きているのか」
六月十四日、一条は道長に出家の意志を示した(『御堂関白記』)。十五日も御悩は重かった。『御堂関白記』には、「御病悩は重かった。時に太波事(たわごと)を仰せられた」とある。「太波事(うわ言)」とは、あるいは道長が日記に記すことのできない内容、たとえば敦康に関することだったのであろうか。 六月十九日に、一条は出家を遂げた。急な出家だったので法服が間に合わず、あり合わせのものを着るしかなかった(『御堂関白記』)。また、一条の髪を剃った高僧たちが事情に疎く、まず髪を剃り、次いで鬚(ひげ)を剃ってしまったため、髪だけ剃って鬚が遺っていた時の人相が、外道(げどう、人に災厄をもたらす悪魔)に似ていたという(『権記』)。 そして六月二十一日、ついに「御病悩は頼りが無かった」という状況に陥った。召しによって近く伺候した行成が飲み水を供すると、一条は「最も嬉しい」と答えた。一条は行成をさらに側近く召し寄せ、「私は生きているのか」と語っている(『権記』)。これが一条の最後の言葉となった。
辞世を詠んだ相手は彰子か定子か
その後、一条は身を起こし、彰子も側に伺候するなか、辞世の御製を詠み、再び臥すと人事不省となった。聞く人は皆、「流泣することは雨のようであった」、「涙を流さない者はなかった」という状態となった。この時の御製は、『権記』に記された、 露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき (露のようにはかないこの身が、風の宿であるこの世に、あなたを残し置いて、塵の世を出てしまうのは悲しいことよ) が元の形に近いのであろう。ドラマでも再現されるが、行成はこの歌を、「その御志は、皇后に寄せたものである。ただし、はっきりとその意味を知ることは難しい」と、定子に対して詠んだものと解している(『権記』)。 歌意からは、「君」はまだ生きていて、しかもこの歌を聞いている彰子のこととしか考えられない。しかし、行成は日記の中で「中宮」彰子と「皇后」定子を使い分けており、一条が辞世を詠んだ対手を定子と認識しているのである。かつて彰子を中宮とした、つまり定子を皇后とした際に決定的な役割を果たした行成であればこそ、その思いは複雑だったのであろう。 翌六月二十二日、一条は清涼殿において、「時々また、念仏を唱えられた」という状態で、死の時を迎えた。辰剋(午前七時から九時)に臨終の気配があり、しばらくすると蘇生したものの、数時間後の午剋(午前十一時から午後一時)、ついに崩御したのである(『権記』)。三十二歳であった。 行成は、「心中、秘かに阿弥陀仏が極楽に廻向(えこう)し奉ることを念じ奉った」という気持ちで床下近く伺候していたが(『権記』)、『御堂関白記』は、「巳剋に一条院は崩じなされた」と、素っ気ない記述しかしていない(ドラマでも再現されるが、「崩」を「萌」と書き誤ってもいる)。 しかも、道長は、側近くに伺候したいと希望する者が多かったにもかかわらず、「朝廷の行事が有る」ということで、多くを殿から降ろし、臨終に伺候させなかったのである(『御堂関白記』)。 死亡時剋を巳剋(午前九時から十一時)と記しているのも、道長自身も最初の臨終の際以降は一条から離れていたためであろう。官人たちが死穢に触れるのを避けるためであろうが、新時代に立ち向かおうとする道長の面目躍如といったところである。