一条天皇から三条天皇へ、そのとき道長や彰子は? 譲位劇を時代考証が解説!
占文を見た道長の失態
40話では、一条天皇の退位と三条天皇の踐祚(せんそ)、そして一条の崩御が描かれる。一条は五月二十二日、彰子御在所に渡御したが、ちょうどその日、病に倒れた。道長はこれを幸いに、早くも二十五日に大江匡衡(まさひら)に譲位に関わる占いを行なわせた(『御堂関白記』)。 ところが、道長は大変な失態を犯してしまった。譲位どころか崩御の卦(け)が出たという占文を見た道長は一条の崩御を覚悟し、清涼殿二間(ふたま)において泣涕してしまったのである。隣の清涼殿夜御殿(よるのおとど)にいた一条は、御几帳(みきちょう)の帷(とばり)の継ぎ目からこれを見てしまい、自分の病状や道長による譲位の策動を知って、いよいよ病を重くしてしまった(『権記』)。 道長は五月二十六日に、一条には知らせないまま、譲位を発議した。翌二十七日の朝、譲位のことがようやく一条に達せられた。一条は居貞に即位を要請するための対面を仲介するよう道長に命じている(『御堂関白記』)。そしてこの後、一条は側近の行成を召し、敦康の立太子について最後の諮問を行なったのである。
第一皇子・敦康という存在
一条は、おそらくは第一皇子の敦康をまず立太子させ、冷泉系の三条皇子敦明(あつあきら)を挟んで敦成や敦良の立太子を望んでいたはずである。いまだ若年で、敦康を後見していた彰子(二十四歳)や頼通(二十歳)は、間に敦康を挟んだとしても、敦成の即位を待つ余裕があった。しかし、すでに四十六歳に達していた道長としては、この時点で敦成を立太子させられないとなると、居貞-敦康-敦明の次までは、とても待てなかったであろう。 ただし、敦成の立太子には、かなりの困難が予想された。言うまでもなく、定子所生の敦康の存在があったからである。平安時代までに皇后もしくは中宮が産んだ第一皇子で立太子できなかったのは、一条皇子の敦康と白河(しらかわ)皇子の敦文(あつふみ)の二人だけであるが、敦文は四歳で早世したものであって、これを除くと、古代を通じて例外は敦康のみとなり、敦康以前には、ただの一例も存在しなかったことになる。 一条は、行成が敦康の立太子を支持してくれることを期待していたであろうが、行成は一条に同情しながらも、敦成立太子を進言した。行成の並べた理屈というのは、第一に、皇統を嗣ぐのは、皇子が正嫡であるか否かや天皇の寵愛に基づくのではなく、外戚が朝廷の重臣かどうかによるのであり、今、道長が「重臣外戚」であるので、外孫の敦成を皇太子とすべきである。 第二に、皇位というものは神の思し召しによるものであって、人間の力の及ぶところではない。第三に、定子の外戚である高階(たかしな)氏は、「斎宮(さいぐう)の事」の後胤(こういん)であるから、その血を引く敦康が天皇となれば神の怖れがあり、伊勢大神宮に祈り謝らなければならない。第四に、帝に敦康を憐れむ気持ちがあるのならば、年官年爵や年給を賜い、家令でも置けばよろしかろうというものであった(『権記』)。 これらのうち、「斎宮の事」というのは、在原業平(ありわらのなりひら)が伊勢斎宮の恬子(てんし)内親王に密通し、生まれた師尚(もろひさ)が高階氏の養子となったことを指すのであるが、もちろん事実かどうかは不明である。なお、伏見宮本『権記』の原本を調査したところ、「斎宮の事」に関する部分だけが、すべて行間補書であり、この部分が後世に追記された可能性もある。 行成が一条の御前に参る前には、台盤所のあたりで女官たちの悲泣の声がした。驚いて問うと、「御病悩は特に重いわけではありませんのに、急に時代の変が有ることになってしまいました」ということであった。また、敦康立太子について行成に諮問していた際にも、一条が「仰せの際には、忍び難い(我慢できない)事が有った」という記述もある(『権記』)。