バーンアウト文化への処方箋―ジョナサン・マレシック『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』
「燃え尽き症候群(バーンアウト)」はストレスや仕事への不満を語るときの言葉として流通しているが、その意味は正確に定義されておらず、激務の疲労や仕事に絶望した労働者の役には立っていません。本書は「ノーを言えるようになる」ことや「瞑想する」ことの無意味性を明らかにしながら、仕事が今や私たちの価値観とアイデンティティを象徴するものになってしまっていることを指摘し、そこから逃れるための道を提示します。以下に訳者によるあとがきを公開します。 ◆バーンアウト文化への処方箋 本書は仕事で燃え尽きて大学教授の職を辞した著者が、自身の体験に基づいてバーンアウトの原因や実態をさまざまな角度から検証し、バーンアウト文化から脱却する術を提案する一冊だ。 「バーンアウト」や「燃え尽き症候群」という言葉を私たちが日常的に使うようになって久しいが、はたしてその厳密な意味を理解しているかというとはなはだ怪しい。仕事上のちょっとした疲労やストレス、不満に対しても、私たちはバーンアウトしたと気軽に口にすることは多い。しかし本書の著者のジョナサン・マレンシックのバーンアウトはもっと深刻だった。彼はすっかり燃え尽き、神学教授の仕事を辞めざるを得なくなるまで追いつめられたのだ。憧れていた大学教授の職に就き、終身在職権も獲得して、じゅうぶんな報酬と社会的地位、そして職の安定も得たはずなのに、なぜ自分はバーンアウトしてしまったのか。著者は自身の体験をきっかけに、現代社会ではなぜ多くの人々が働く気力を失い、自分を人生の敗北者と感じてしまうのかを突きとめようとする。そしてバーンアウトの原因や科学、歴史、文化を、学者ならではの綿密な調査と考察でさぐっていく。 こうして、著者個人のバーンアウト体験から始まった探求の旅は、バーンアウトという現代社会特有の現象がたんなる個人の問題ではないことをじょじょに明らかにしていく。一般にバーンアウトを引き起こす原因としては職場における自律性の欠如や不公平、コミュニティの崩壊、価値観の不一致などが挙げられるが、原因は職場環境だけにあるとは限らない。バーンアウトに陥りやすいのは献身的に働く人たち、高い理想を掲げ、その理想に近づこうとしながら現実とのギャップに苦悩する人たちだ。では、私たちが仕事に持ち込んだその高い理想はいったいどこから来たのか。仕事の現実である労働環境の悪化を引き起こした原因はなんなのか。バーンアウトという現象を長い時間軸と文化、哲学の視点でとらえ、掘り下げるうちに、もはやバーンアウトは労働者個人の問題ではなく、現代の社会と文化に組み込まれた、逃れられない問題となっていることが浮き彫りになっていく。 ではなぜ、私たちはバーンアウトから逃れることができないのか。著者は、現代の労働倫理の歴史をひもとき、現代の私たちは仕事をその人の価値、その人のアイデンティティとして認識していること、そして人は働いてこそ価値がある、仕事は人に尊厳、人格、目的意識を与えるという考え方を内面化していることを指摘する。だとすれば、人は自分の価値を社会に証明するために、限界まで働いてしまうのも無理はない。その考え方が、私たちをバーンアウトに駆り立てているのだとすれば、私たちが労働に対して抱いている理想が、むしろ私たちの首を絞め、それが悪化の一途を辿る労働環境のなかで私たちを追いつめているということになる。 このように人々をバーンアウトに駆り立てる文化からの脱却について考える第二部では、著者は人間らしい良い人生を送るためのヒントを探して、バーンアウト文化からできるだけ遠いタイプの働き方をしている人々を訪ねる。労働時間を制限して多くの時間を祈りにあてる修道院の修道士、スタッフの人間性を中心に組織を運営する非営利団体、仕事よりも趣味に生きる人たち、障害のあるアーティスト。彼らはみな、自律性の欠如や不公平、コミュニティの崩壊、価値観の不一致といったバーンアウトの原因とも、仕事がすべてという価値観とも無縁の生活を送っている。仕事を自身のアイデンティティとはせず、仕事をしていなくても尊厳や人格、目的意識を保って生きている人たちだ。 特に印象に残るのは、修道院の収入を確保するために立ち上げたIT事業が大成功を収めるが、修道士の祈りの時間を確保するために、あえて事業を閉鎖する修道院の判断だ。それは、彼らには金銭的利益や仕事の充実感よりもはるかに大切なものがあることを示している。一般の人たちに同じことを期待することはできないが、それでも利益や仕事の充実感以上に価値のあるものの存在を認め、仕事と人生、ワークとライフのバランスを考える一助とはなるだろう。 著者はこういった修道士やアーティストの多くに直接取材し、仕事が人に尊厳を与え、人格を作り、目的意識を育むという私たちにしみこんだ考え方はまやかしではないか、仕事に依存しない、もっと人間らしい良い人生の送り方があるはずだと問いかける。 本書が2021年のコロナ禍に書かれたことも、バーンアウトを考えるうえでは意味がある。COVID‐19の蔓延は、これまで一心不乱に働いていた人たちの仕事が一時的に、ほぼ完全にストップした前代未聞の出来事だった。ある日突然、生活から仕事がなくなったときに私たちは何をよりどころに、何を大切にして生きるのか。今、この時期に本書を読むことで、コロナ禍前とは違う世界が見えてくるかもしれない。 [書き手]吉嶺 英美(翻訳家) [書籍情報]『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』 著者:ジョナサン・マレシック / 翻訳:吉嶺英美 / 出版社:青土社 / 発売日:2023年10月27日 / ISBN:4791775910
青土社
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