「ひとり死の先輩」を看取って考えたシングル社会 最後の言葉は「自宅でこのまま死なせてほしい」
だが、それは「巻き込まれた」のではない、紛れもないサービスとしてのプロの仕事だった。それに不満があったのではない。それだけで満たされなかったものが確かにあり、私はそれに人の死に「巻き込まれる」ことの意味を感じた。それは研究者の視点というより、私の宗教観とか死生観といった、もっと私的な感情から出てきたものだろう。 ■Kさんも筆者に「巻き込まれ」ていた ところで、「自宅でこのまま死なせてほしい」は、終末期医療のあり方には大いに疑問を抱いていたKさんらしい最後の言葉だと先に書いたが、それは私の勝手な思い込みだったのかもしれないと後年気付いた。Kさんは一介の営業マンから役員まで出世した人だ。当時の私には、話の長いおじさんでしかなかったが、いっぽうで、それがKさんのサービス精神から来ていると感じることが何度かあった。
「自宅でこのまま死なせてほしい」は、入院して病院で亡くなることで、私に負担をかけまいとしての配慮だったのではないか。ほかに頼る人はいなかっただろうから、ある程度公的サービスを利用するとしても、入院の保証人、病院への手続きや支払い、入院期間中の自宅の管理など、多少なりとも私に負担がかかると考えていたのではないだろうか。 入院期間が長引くほど、私も病院に見舞い行く回数も増えるだろう。入院して亡くなるよりも、このまま自宅で亡くなるほうが、おそらく死を迎えるまでの期間は短くなる。そのほうが、私への負担は小さいと考えたのではないだろうか。Kさんも私に「巻き込まれ」ていたので、自分の死にあたって私に配慮しなければならなかったのではないか。
ひとり暮らしの高齢者の終末期ケアが制度的に整備され、Kさんがそうしたサービスを利用できたなら、生前に整理したかったことがもっとできたかもしれない。確かめようもないことだが、私も自分の最期を考えたとき、このまま生涯未婚で、母と妹が先に亡くなれば、親族は姪のみになる。まさにKさんは、私の「ひとり死の先輩」であり、私の未来の姿なのかもしれない。
酒井 計史 :社会学者、労働政策研究・研修機構リサーチアソシエイト