「ひとり死の先輩」を看取って考えたシングル社会 最後の言葉は「自宅でこのまま死なせてほしい」
誰かが無理をしている状況は決してよいことではなく、何らかの制度的な解決を目指したほうがよいに決まっている。だが、「巻き込み型親密圏」は、人間が人間らしくあるためには、ある程度仕方ないのではないか。 私は「巻き込まれた」側であるいっぽうで、ひとりで抱えきれずに、地域包括支援センターの支援員さんや往診を頼んだお医者さんを「巻き込み」、結果的に「Kさん看取りプロジェクト」のリーダーとして動いていたといえる。
その担当してくれた支援員さんは、Kさんとは1週間、時間にして数時間の接触だったのだが、支援員さんにも相当なストレスだったようだ。亡くなった当日夜に支援員さんのほうから労いのお電話をいただき30分も事の経過をふたりで回想した。お互い抱えきれない想いが吐き出された電話だったと思う。 さらにこの後、姪御さんご夫婦、不動産屋さん、Kさんの隣の家の古物商さんとともに、私のKさん宅退去と「Kさん宅処分プロジェクト」の一員として付き合うことにもなる。このように、Kさんの死をめぐって、巻き込まれ、巻き込み、一時的な社会関係が作られては消えていく。『東京ミドル期シングルの衝撃』第5章で、私はこうした関係性を「中間圏」として捉えられないかと提案したが、シングル社会のオルターナティブな親密圏の具体的な形の一つは、そのような性格のものかもしれない。
だが、決してきれいごとでは済まされない、できれば引き受けることはしたくないのだが、誰かが引き受けざるをえないことである。 制度的な解決は、公的あるいは民間のサービスとなるだろうが、それだけで本当によいのか。人の死にしっかり「巻き込まれる」人間が必要なのではないか。 Kさんの葬儀の日、火葬場の控室で、私はそうした到底答えの出ないことに考えめぐらせていた。区がつけてくれた葬儀屋さんの担当者さんは、私を唯一の遺族と勘違いし、Kさんのご遺体と私に真摯に向き合ってくれた。仕事ぶりが見事で非の打ち所がなかった。