かつては石原慎太郎氏も務めた維新代表 結党12年、曲折と原点回帰で変わった顔ぶれ
日本維新の会の代表選が17日告示された。現在の党名になった平成28年以降、代表選は令和4年8月に続き2回目。前回の候補者3人を上回る4人の争いとなり、来月1日に選出される新代表は全国政党化達成に向けて手腕が問われる。平成24年の旗揚げから合流や解党・分裂を繰り返し、12年余り。これまでに代表を務めた6人の顔ぶれを振り返る。 【表でみる】日本維新の会結党時からの代表の顔ぶれ ■「橋下氏は牛若丸」 維新結党は24年9月。地域政党「大阪維新の会」を母体とし、当時大阪市長で「東京一極集中の打破」を掲げる橋下徹氏が立ち上げた。参加した国会議員7人のうち、現在も国会議員の職にあるのは、小熊慎司衆院議員=福島3区=のみ。その小熊氏も、所属政党は立憲民主党で、維新ではない。 24年11月、維新は旧太陽の党と合流。元東京都知事で作家の石原慎太郎氏(故人)が代表に就任し、橋下氏は代表代行に。石原氏は当時「橋下氏は牛若丸、私は彼にほれた武蔵坊弁慶」とほめちぎった。 維新は結党後初めて挑んだ24年衆院選で54議席を獲得し、新党として躍進したが、その後は石原氏と橋下氏の路線対立によって解党することに。26年9月に旧結いの党と合流し「維新の党」を結党した。 ■都構想否決が転機 当初は共同代表制で、橋下氏と江田憲司衆院議員が就き、26年衆院選で41議席を得た。衆参両院では約50議席に。直後に橋下氏は、大阪市を廃止し特別区に再編する看板政策「大阪都構想」実現のため、27年統一地方選の対応に専念するとして代表を辞任し、江田氏が単独で代表を務めた。 維新にとって最も重要な転機の一つが、27年5月。大阪都構想の是非を問う住民投票が反対多数で否決され、橋下氏が政界引退を表明し、江田氏も代表を辞任した。 後を継いだのが、24年結党時の国会議員7人衆の一人である松野頼久(よりひさ)元衆院議員だ。しかし野党連携や党運営のあり方などを巡り、松野氏ら民主党系と大阪系の内部抗争が激化し、一時は法廷闘争にまで発展した。 橋下氏ら大阪系はたもとを分かち、27年11月に新たな国政政党「おおさか維新の会」を設立。衆院議員は10人余りの船出となった。翌12月に橋下氏の政界引退を受け、幹事長として支えてきた当時大阪府知事の松井一郎氏が党代表に就任した。