「“オメガトライブの杉山さん”に悩んだ」杉山清貴、挫折と葛藤を乗り越えた「僕らの音」
夢をペンからギターに持ち替えて
「おふくろが日本舞踊と常磐津のお師匠さんだったんですよ。家には毎日お弟子さんが通ってきていて、朝から晩まで、ちんとんしゃん、ちんとんしゃん……って」 杉山は'59年に横浜の磯子で生まれた。産声を上げたときから音楽は身近にあった。が、幼少期に受けた邦楽の洗礼は、必ずしも楽しい記憶ではなかったという。 「小学校に入るくらいまで三味線を弾かされましたけど、ビシビシ鍛えられて、もうイヤで、イヤで。子どものころは絵が好きで、漫画家になりたかったんですよ。石ノ森章太郎さんの『マンガ家入門』という本を買って、漫画を描く道具をそろえて、学級新聞に4コマ漫画を描いたりしていました」 小学4年生のある日。休み時間に同級生の漫画友達が似顔絵を描いていた。見たことのない4人の外国人。 「それ、誰?」 「ビートルズ」 「ビートルズって?」 「ウチにレコードあるよ」 遊びに行くと、友達の5歳上の兄がビートルズのレコードを貸してくれた。 「何のアルバムかは覚えていないけど、家に帰ってポータブルプレーヤーで聴いたら、今までに触れたことのない世界が瞬間的にバーンと広がるような衝撃が走って。それからは漫画も描かずにビートルズばっかり聴いていた」
ジョージ・ハリスンに憧れた理由
ビートルズの中でも、ジョージ・ハリスンに憧れた。理由があった。 「'71年にジョージがバングラデシュの難民救済コンサートをやったんです。世界で初めてのチャリティーコンサートですよね。それが映画になって、見に行ったら心を持っていかれた。ミュージシャンって、こんな大きなことができるんだと。ステージでジョージは白いスーツに赤いシャツを着てたんで、僕も映画を見た後、赤いシャツを買って帰ってきました(笑)」 お小遣いは全部ビートルズに注ぎ込んだ。レコードは海賊版まで買いあさる。歌詞の意味が知りたくて訳詞集も買った。それを読み込むうちに自分でも詞を書くようになる。さらに、ギターを買ったことで作曲に興味が湧いた。中学時代に初めて作ったオリジナル曲のタイトルは『ことほどさように』。 「ことほどさように考え抜いて、いま来た道を戻り行く……。全然ビートルズじゃない(笑)。僕らの世代はフォークも通ってきていますから、(井上)陽水さんや(吉田)拓郎さんの影響ですよね」 それでも演りたいのはビートルズ。中学2年でバンパイヤという名のバンドを結成し、ビートルズの楽曲をコピーした。杉山のパートはギター兼ヴォーカル。だが、 「ヴォーカルをやりたかったわけじゃないんです。聴きまくっていたからたまたま歌えたというだけで」 その“たまたま”が周囲には無二の才能に映った。高校2年のクラス替え。名簿順に着席すると、杉山の前に座っていた椎野恭一が声をかけてきた。 「LAMBで歌わない?」 椎野が所属していたラテン・アメリカン・ミュージック・バンドは、横浜で受け継がれてきたハイレベルなアマチュアバンド。そこでドラムを担当していた椎野は、筋金入りのロック小僧だった。 「生意気なことを言うと、すでに僕はライブハウスやイベントに出演させてもらったりしていましたから、この高校に自分の相手になるようなヤツなんていないと突っ張っていたんです。ところが1年生の11月に冷やかしのつもりで文化祭で見たら杉山が歌っていて……。 ビックリしました、歌のうまさだけでなく、そのころからオーディエンスを楽しませるエネルギーにあふれているというか、“ヴォーカリスト・杉山清貴”のルーツができあがっているような印象でしたね」(椎野) LAMBのヴォーカリストとなった杉山は、椎野とともに地元のライブハウスに出演するようになる。高校を卒業するころには、杉山の澄んだ伸びやかなヴォーカルは地元のアマチュアミュージシャンの間で誰もが知るところとなっていた。