「“オメガトライブの杉山さん”に悩んだ」杉山清貴、挫折と葛藤を乗り越えた「僕らの音」
1日だけで終わるはずのバンドだった。 1978年12月23日。ロックの聖地とも呼ばれていた東京・霞が関の久保講堂に、お祭り気分で集まった17人の若者たちがいた。その中心メンバーで、当時は高校3年生だったギタリストの吉田健二は振り返る。 【写真】音楽番組全盛の当時、視聴者の心をつかんだ“海・夏・リゾート”をイメージした楽曲
寄せ集めバンドの17人目のメンバー・杉山清貴
「僕の兄がフルハウス(後のエイプリルバンド)というバンドのベーシストで、久保講堂でコンサートをやるから、おまえらが前座をやれって言われたんですよ。で、自分のバンド仲間に声をかけると、暇な連中がいっぱい集まってきたんですけれども、ヴォーカルがいなかった。それなら“ダメ元で1年先輩の杉山君にお願いしてみよう”ということになって、頼みに行ったら“うん、いいよ”って、杉山君はあっさり引き受けてくれたんです」 こうして寄せ集めバンドの17人目のメンバーになったのが、地元・横浜のライブハウスでアルバイトをしていた杉山清貴だった。 「僕らのまわりでいちばん歌がうまいのは杉山君でしたからね。彼が入ってくれたら何の心配もいらなかった。ただ、1回で終わるバンドですから先のことなんか考えていなくて、バンドの名前も面白ければいいだろうって、『きゅうてぃぱんちょす』に決まったんです」(吉田) オープニングアクト(前座)とはいえ、きゅうてぃぱんちょすのステージは会場を大いに沸かせた。 1日で解散するには惜しいパフォーマンス。祭りの余韻から覚めて日常に戻るメンバーたちの一方で、「もうちょっと続けようか?」と、自分の正直な気持ちに抗えないメンバーもいた。 杉山は言う。 「大学でもない、就職でもない、そのどちらにもはまりたくないヤツらが、将来はどうなるかわからないけれども、夢だけを追い求めて生きていきたくてバンドに残ったんです」 それから4年半後。きゅうてぃぱんちょすは『杉山清貴&オメガトライブ』と名を変えて、日本の'80年代シティロックシーンに鮮烈なデビューを果たすこととなる。