ロシア帝国が日本を攻撃した「文化露寇」 択捉島神社に安置された大砲の姿
終戦から70年以上経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。終戦直後の1945(昭和20)年8月28日から同9月5日にかけて、旧ソ連軍の侵攻により、北方4島が占領されました。北方領土で暮らしていた人たちは、その後自力脱出したり、残された人たちは、旧ソ連兵とその家族らとの混住生活を強いられた後、1947~48(昭和22~23)年にかけて、強制的に島を追われ、樺太を経由して日本本土へ送還させられます。 島で撮影された写真の大半は旧ソ連に没収されました。しかし、元島民でつくる千島歯舞諸島居住者連盟(千島連盟)は自力で脱出できた島民が命がけで持ち出した写真を中心に約560点を収集。古くなり、劣化したものも多くなってきたことから、平成24年度デジタル化して保存する作業を行いました。千島連盟は「集まった写真は人物を写したものが多いですが、背景などから、島の当時の様子を知る大切な資料と考え、大切に保存しています」と話します。人々の表情や景色、風習…。一枚一枚の写真に、元島民が生き生きと暮らしていた証があります。 今回、千島連盟からそれらの貴重な写真の提供を受けました。
1800年ごろから、ヨーロッパ列強による日本接近が始まります。特に、通商を求めたロシア船が蝦夷地や根室など日本北方にたびたび現れるようになりました。将軍家斉の治世だった文化3ー4(1806ー1807)年には、ロシア帝国の外交使節ニコライ・レザノフが部下に命じ、日本の北方拠点を攻撃させたいわゆる「文化露寇」が発生します。 中でも、択捉島の中心地、紗那(しゃな)は、ロシア側からの銃撃や艦砲攻撃にさらされ、警護していた津軽・南部藩兵士が撤退。紗那の幕府会所は、ロシア兵が倉庫の米や美術品、武器などを略奪後、放火し、焼失します。責任者だった箱館奉行支配調役下役・戸田又太夫は撤退中に自刃しました。 この事件は、幕府が鎖国体制の維持と、海防強化に努めるきっかけになります。このロシアによる襲撃事件から間もない文政年間に造られたとされる大砲を安置した紗那神社の写真が残っていました。