原水協「ソ連の核は防衛的」、原水禁「いかなる国にも反対」 被爆者の願いよそに今も分裂
広島・長崎の被爆者でつくる日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞が決まった。しかし、被爆者たちの核兵器廃絶の願いをよそに、労組や市民団体などの運動は、かつて「ソ連の核は防衛的なもの」と主張していた原水爆禁止日本協議会(原水協)と「いかなる国の核にも反対」の原水爆禁止日本国民会議(原水禁)などに分裂。ソ連が崩壊しても分かれたままだ。 【写真】「核実験の再開という非常手段に訴えるのはやむを得ない」ソ連を擁護した共産党の野坂参三議長 ■当初は自民系も参加の広範な運動 原水爆禁止運動がさかんになったのは、昭和29(1954)年、米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で日本のマグロ漁船の船員が死亡した「第五福竜丸事件」がきっかけだ。 東京都杉並区の主婦らが署名活動を始め、被爆者も声を上げて、30年に初の原水爆禁止世界大会が広島で開催。被爆者の援護・連帯を目的として原水協が結成された。31年には第2回世界大会が長崎で行われ、日本被団協が作られた。 原水協は保守系も含めた広範な国民運動だったが、日米安保条約改定反対を打ち出したため自民党系が離れ始め、36年に民社党系が脱退して核兵器禁止平和建設国民会議(現・核兵器廃絶・平和建設国民会議)を結成した。 ■共産「『死の灰』やむを得ない」 同じ年、ソ連が中断していた核実験の再開を発表すると、共産党の野坂参三議長(当時)が「たとえ『死の灰』の危険があっても、核実験の再開という非常手段に訴えるのはやむを得ない」と擁護。翌年には上田耕一郎氏(後の副委員長)が「極度に侵略的な戦略を完成しようとする米国の核実験に対して、ソ連が防衛のための核実験を行うことは当然であり、世界大戦の勃発を阻止するための不可欠の措置にほかならない」と核抑止論を展開した。 これに対し「いかなる国の核実験にも反対」とする社会党系は反発し、40年に原水協を離脱して原水禁を結成した。原水協と原水禁は原水爆禁止世界大会を別々に実施。その後、共産党がソ連や中国の核に批判的になったこともあり、52年から60年までは世界大会を共同で開いたものの、再び対立が激しくなり分裂大会に戻った。 ■壇上から引きずり降ろされた学生