サム・ペキンパーの真似で8ミリ映画制作を始めた黒沢清監督が、大学時代に出会った未来の映画作家たち
―― それはどんな内容でしたか? 黒沢 『暴力教師』という作品ですね。 ―― タイトルは聞いたことあります。 黒沢 20分ぐらいの……ほんと恥ずかしいですよね。大学の中で、先生が生徒を人質に取って何か要求するというような馬鹿げた内容だったんですけど。当時のアメリカ映画、ヨーロッパ映画なんかでもありがちな、反体制学生アクションみたいなノリのものですね。森達也はもうちょい青春映画みたいなのを撮ってましたね。 ―― 森さんは黒沢さんの『しがらみ学園』の主役をやってますよね。 黒沢 森はSPPで映画を撮りたいと言いつつ、一方で立教の演劇のサークルにも入っていて、俳優が主な活動みたいな雰囲気でしたね。だから、映画もやるけど、基本的にはこの人は演劇の俳優をやりたい人なんだろうなという感じがあったものですから、その後も監督というよりは俳優として、僕の映画も含めてSPPが作る映画にいろいろ出ていました。
石井聰亙との出会い
―― 『暴力教師』を作って、反響はどうだったんですか? 黒沢 テレビでやったりはしたんですよ。 ―― エッ、そうなんですか。 黒沢 そういう時期だったんです。僕が2年生になった時でしたけど、テレビで「今、学生たちが自主映画を作ってます」と特集する番組があって、どうしてうちに声がかかったのか分からないですけど、SPPから何か代表作を出してくれと言われて、『暴力教師』をやった。初めてテレビ局というところに行ったら、控室に和田アキ子がいました。 ―― そうですか(笑)。 黒沢 「あっ、和田アキ子だ」と思って、「おはようございます」とか言ってて、「あ、おはようございますって言うんだ」とビックリした記憶があります。 ―― 他の自主映画の方はどなたでしたか? 黒沢 他に何人かテレビ局に呼ばれていたけど、ちょっと覚えてないですね。でもよく覚えているのは、その頃立教大学の上映会で『暴力教師』をやったら、「日芸の学生です」という若い人が来て、「大変感激しました」と。「今、自分は逆に生徒が先生とか他の学生たちをみんな人質に取って反乱を起こすという映画を考えてます」と言っていた人が石井聰亙だったんです。
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