サム・ペキンパーの真似で8ミリ映画制作を始めた黒沢清監督が、大学時代に出会った未来の映画作家たち
―― その頃好きな映画というのは、ペキンパーの他には? 黒沢 当時僕らの世代だと、『仁義なき戦い』ですね。『仁義なき戦い』を中心とした日本映画。東映やくざ映画なども古いものも含めて浴びるように見ておりました。同時に高校生ぐらいから映画の本を読むようになるんです。新書判で出ている佐藤忠男さんが書いた『ヌーベルバーグ以後』という本があって、熟読しました。そこに全然知らなかったいろんな映画があって。全く見てもいなかった大島渚とかね。「大島渚ってそんなすごいの?」と、大島渚の映画を見たり。あとはイタリア勢、フェリーニ、パゾリーニ、それから新人として注目され始めたベルトルッチ、もちろんジャン=リュック・ゴダールも。「そんな人がいるんだ」と、アメリカ映画だけではないいろいろな映画に興味を持ち、上映していたら勇んで見に行くというような時を過ごしていました。 ―― 立教に入った時、SPP(注1)はもうあったんですか? 黒沢 もちろんありました。立教大学に入ってすぐに、8ミリ映画を作っているサークルはないかと探したら、映研はあんまり作ってなさそうだったんです。「8ミリ映画を作っています」というのを大々的に掲げていたのがSPPでした。 ―― 最初は先輩の映画に参加してスタッフをやったんですか? 黒沢 それまでは先輩が撮るものを新入生は手伝うという、何となくの慣習があったようなんですけど、僕が入ってごく初期のミーティングで、「先輩が撮って後輩がそれを助けるのが決まりだというのはおかしい」ということになって。それで、新人であれ先輩であれ、誰でも撮りたい人が手を挙げて、脚本を書いて、「こういうものを撮りたいです」と一種の小さなコンペですけれど、それでみんなで「これは面白そうだね」となれば、それをみんなで手伝うというふうにしようよとなったんです。それなら、と僕はものすごい勢いで脚本を書いたんですよ。まあ、短いものですよ。その時に他に脚本を出したのが、同じ1年生だった森達也ですね。そしたら、「その2本を今年は撮ります」となったんです。だから、SPP史上初めて1年生が、しかも2本とも撮るということになったんです。クラブの会費、制作費みたいなものが数万円ですけどあったんですね。だから、僕が個人的に負担するのではなく、数万円の予算で僕と森が2班に分かれて、夏休みを使って撮影しました。
【関連記事】
- 【続きを読む/#2】「邦画は全然ダメだ。僕らが8ミリで撮っている方が面白いんじゃないか?」黒沢清監督を動かした“不遜な思い”
- 【続きを読む/#3】「今思い出しても恥ずかしい」黒沢清監督が初めてプロの現場を体験した沢田研二主演『太陽を盗んだ男』
- 【続きを読む/#4】「こんなものは公開しない」日活が異例の納品拒否した黒沢清監督のロマンポルノ作品が『ドレミファ娘の血は騒ぐ』になったわけ
- 「自主映画から商業デビュー」大林宣彦監督こそが先駆けだった――恭子夫人が語る大学での出会い、二人三脚での映画づくり
- 「彼の作品だけムチャクチャカッコよかった。他の映画と違った」犬童一心監督が今も忘れられない、“あの名監督の大学時代”