敵を作りすぎた「美濃のマムシ」斎藤道三は息子にも領民にも嫌われた⁉
戦国史の中で「梟雄」として知られる斎藤道三。彼は梟雄の名のとおり、周囲からあまりポジティブな印象はもたれなかったという。 ■後継者だった嫡男とそれを推す国衆に屈する 斎藤道三(さいとうどうさん)は、もとはといえば美濃の小守護代を務めていた長井氏の名跡を継いでいたものである。そのころ美濃では、土岐頼芸(ときよりのり)とその甥にあたる頼純(よりずみ)が守護職をめぐって戦いを繰り広げていた。道三は土岐頼芸に従っており、奮戦の末、頼芸を美濃守護としている。この功績により、美濃守護代・斎藤氏の名跡を継ぐことを許可されたとみられている。 ただし、土岐頼芸が美濃守護になったからといって、戦乱が収まったわけではない。土岐頼純の母は越前の戦国大名・朝倉貞景(あさくらさだかげ)の娘であり、朝倉氏の支援のもと、美濃への復帰を画策していた。また、守護になった土岐頼芸も、政治の実権を道三に握られていることを不服として、尾張の織田信秀(おだのぶひで)を頼っている。そのため、道三は、越前の朝倉氏や尾張の織田氏にたびたび攻め込まれることになってしまったのである。 結局、道三は頼純を支援する朝倉孝景(たかかげ)と和睦せざるをえなかった。その和睦の条件に従って、土岐頼純が美濃の守護になったのである。一方、天文16年(1547)には織田信秀が道三の居城・稲葉山城下にまで侵入してきたが、加納口の戦いで辛くも撃退することに成功した。 土岐頼純が急死したのは、その直後のことである。今となっては死因を特定するのは不可能であるが、どうやら頼純は道三に毒殺されたものらしい。頼純を排除したのは、朝倉氏の介入を防ぐためであり、一方の織田氏に対しては、娘の濃姫(のうひめ)を信秀の子・信長(のぶなが)に嫁がせて同盟を結ぶ。 こうして、朝倉・織田両氏による侵入を食い止めた道三は、主君であった土岐頼芸を追放してしまう。美濃一国を実質的に押さえた道三にとって、もはや傀儡としての守護は必要なかったのである。 名実ともに美濃の太守となった道三は、天文23年、家督を嫡男の義龍(よしたつ)に譲った。しかし、家督を譲られた義龍は、廃嫡されることを恐れていたらしい。道三が寵愛していたふたりの弟・孫四郎(まごしろう)と喜平次(きへいじ)を殺害してしまったのである。廃嫡されないように先制攻撃をしかけたものとみられるが、これが事実だとすると、親子の関係そのものが、もともとあまりよくなかったのだろう。 弘治2年(1556)、道三は義龍と長良川畔で戦い、敗死した。軍勢の数は、道三側が2700余に対し、義龍側は1万7000余と伝わる。毒殺などで美濃を奪った道三に対し、不満を抱く国衆がそれだけ多かったということなのかもしれない。親子の不和という単純なものではなく、道三は義龍を推す国衆に討たれてしまったということになる。 監修・文/小和田泰経 歴史人2021年09月号「しくぎりの日本史」より
歴史人編集部