意外と知らない「定年後の仕事」…70歳女性、再雇用の道を進むかどうかの「決断」
年収は300万円以下、本当に稼ぐべきは月10万円、50代で仕事の意義を見失う、60代管理職はごく少数、70歳男性の就業率は45%――。 【写真】意外と知らない、日本経済「10の大変化」とは… 10万部突破のベストセラー『ほんとうの定年後』では、多数の統計データや事例から知られざる「定年後の実態」を明らかにしている。
近所の学校で補助教員として働く
坂田奈緒子さんは現在70歳の独身女性。私立大学の教育学部において小学校の教職課程を修了したが、卒業と同時に一念発起をして海外へ留学し、帰国後は外資系企業で働く。 最初の会社は、輸入建材を売るフランス系のメーカーであった。入社後4年ほどでフランス側が資本撤退したことを機に転職。アメリカ系の化粧品会社に移ったがその会社も5年ほどで退職、37歳のときにフィンランドの製造業の会社に入社し、同企業で定年まで働くことになる。 3社目の企業で坂田さんが担当していた商材は、紙パルプ製造設備。同社が製造している大規模設備について、大手製紙メーカーの生産現場に営業をかけ、受注を得る。その後は、本社工場から納入先企業の工場に納入を行う。日本支社にはごく限られた人員しか割り当てられていなかったこともあり、営業から納入までの仕事を一貫して担当してきた。 「紙パルプ製造設備一式を扱ってました。日本支社は決して規模が大きくありませんので、最初のほうは社長の補佐として、広報から人事、経理、マーケティング、販売、全部やってました。ただ、だんだん人員も拡充するなかで私の仕事も集約されてきて、最終的には営業部に所属することになったんですね。最後の10年間は完全に営業職で、だから北から南まで数多くある工場、製紙会社の工場に物を売り歩くという、そういうことをしてました」 「何よりうれしかったのは、男性と肩を並べて仕事ができたということです。当時は女性というだけで仕事をさせてもらえない企業がほとんどでしたので。会社のおかげで様々な仕事を経験できたし、任せてもらえたっていうのが私の誇りでした。大きな決断しなきゃいけないこともありました。もちろん最終的には上司に相談してイエスかノーかを判断するんですけれども、自分なりにこうだからっていうことを説明して承認をもらってっていう、そういう仕事はとってもやりがいがあって、面白かったです」 製紙メーカーの生産設備の構造は非常に複雑であり、営業の仕事は決して簡単な仕事ではなかった。パルプチップを砕いてから紙にするまでの工程において様々な設備が存在しており、それぞれの設備は多数の消耗品や部品で構成されている。生産設備の全体像をつかんでいなければ商談にはつながらない。 「私は詳しい技術的なことはよくわかっていなかったので、ものすごく勉強しました。自分で勉強したり、人に聞いたり、いろいろ書物も読んだり。私が担当していた部品や消耗品においても技術的なことが理解できていないと、お客さんに説明もできないし、自分自身も納得できないので。でも勉強すればするほど面白さが増して、お客さんも説得できるようになるとさらに面白かったですね」 当時在籍していた会社の定年は60歳。定年後は再雇用の道も残されていたが、坂田さんは再雇用の期間中に別の道を探すことになる。他企業を探したのは、定年後の契約において、仕事の内容と給与面の兼ね合いに疑問を感じたことが直接的な要因となる。 「定年後は1年間契約期間を延長したんですけれども、お給料が半分ぐらいに減っちゃうんですね。同じことをやってて、なんで半分に減らされるのかと。確かに年齢とともにパフォーマンスが下がる人も多くいます。でも私に関しては、年間の売上目標とかは必ずクリアしてたんですね。退職後も目標額をクリアしてて、それでもボーナスはそんなに多くなくて、ちょっと納得できないなって思って。上司に交渉もして、上層部にまで交渉したんですけれども、『社内の規定だから、あなただけ優遇するわけにいかない』ということでしたので、じゃあほかの道を探そうということで」 再雇用の期間中に、市の広報で小学校の非常勤教員を募集していることを知り、応募したところ採用に至る。自宅から徒歩5分の学校であり、産休育休代替教員として学校の教務を補助する仕事であった。 給与水準は高くはないが、補助教員ということもあって一日の労働時間は4時間ほど。仕事の内容は、生徒の補習や採点業務のほか、小学3・4年生の算数のクラス別教室の授業も引き受ける。 「今の仕事は一日4時間で週5日の勤務です。翌日の準備があったり、採点があったりするので、一日5時間弱ですね。でも長くても5時間ですから、働いた後で自分の自由時間もあるじゃないですか。それがすごくいいんです。常勤の教員の仕事は本当に大変なので、この年齢でフルタイムの仕事をしろといわれても、さすがにもうそこまでの気力はありません」 「子供と接していてとてもかわいいし、やりがいもあるし、少しは社会のためになってるかななんて、自己満足なんですけれどもそんな気持ちです。教職っていうのはちょっと飛躍して言えば、将来の日本を背負っていく子供たちの教育に携わっているので、自分の教え子たちが将来、なんていうのかしら、日本を背負っていくような人間になってくれればいいななんて思ってまして」 坂田さんは生涯独身。現役時代に貯めたお金もあり、老後資金には苦労していない。当初はここまで長く働き続けるとは想定してこなかった。定年後も働き続けることについて、現在ではどのように考えているのだろうか。 「当初は、営業を長くやってきましたので、もうそろそろいいかなという気持ちはずっと持っていました。結果的に今70歳でもまだ仕事してるんですけれども、私もこんなに長く働くとは思ってもいなかったんですね。もう定年になったらさっさと辞めて、今までできなかったこと、たとえば読書をしたり、旅行したりとか、好きな生活をしてみたいとずっと夢見てたんですよ。ところが定年後に新しい職場で働いてみると、面白かったんですね。それから仕事の合間に旅行したりもしてましたけれども、やっぱり仕事できる期間っていうのは限られてると思うんです。今70歳で、まだ働いてるって信じられないんですけれども。仕事できる間はできる範囲で仕事をがんばってみて、その後に自分に対するご褒美っていうのがあってもいいのかなと思ったんです」 現在の生活は仕事が引き続き結構な部分を占めているものの、趣味に関する活動も欠かさずに行っている。 「スポーツジムには週4日、平日の夜に通っています。私、体力がすごくあって、学生時代テニス部のキャプテンやってたんですね。それから楽器でフルートも習っています。これは、最近始めた趣味です。月1回なんですけれども、時々練習したりもしますね。あとこれも最近になって短歌の会に入って、それも月1回の会があるんですけれども、短歌を作ったりとか、批評会をやったりとか、そんなことでプライベートは充実してます」 つづく「多くの人が意外と知らない、ここへきて日本経済に起きていた「大変化」の正体」では、失われた30年を経て日本経済はどう激変したのか、人手不足が何をもたらしているのか、深く掘り下げる。
坂本 貴志(リクルートワークス研究所研究員・アナリスト)