「冷めたユーモアや、力の抜けた笑いの感覚と……」谷中敦が奥田民生と意気投合した“もう一つの理由”
東京スカパラダイスオーケストラの谷中敦が初めて奥田民生にあったのはユニコーンのアルバム『服部』が発表された1989年ごろだったという。そのころから慕い続ける谷中にとって奥田民生はどのような存在なのだろうか?(全2回の前編/ 続き を読む) 【写真】この記事の写真を見る(10枚) ◆◆◆
奥田民生とスカパラとの出会い
――民生さんとは長いお付き合いになりますよね。 谷中敦 ええ、けっこう長いですね。最初の出会いはちょっと思い出せないですけど、事務所が同じだったので、ユニコーンさんの日本武道館公演にホーンセクションとして呼んでいただいて。自分たちにとって初めての武道館だったので、それは強烈に印象に残っています。アルバム『服部』(1989)のころかな。 ――民生さんとはどんな点で意気投合したんですか? 谷中 民生さんは広島出身ですけど、自分たち東京出身の人間と同じ少しとぼけた感じや、冷めたユーモアの感覚を持っている方だなって。そういう笑いの部分にシンパシーを感じたんだと思います。自分は竹中直人さんとずっと仲よくさせていただいてるんですけど、竹中さんも関西の人たちとは違う、力の抜けた笑いの感覚をお持ちですよね。民生さんは西日本出身なのに、すごく東京っぽいなと。あと民生さんはなにより人柄が魅力的なんです。 ――民生さんは谷中さんよりひとつ年上ですが、先輩という感覚ですか? それとも同世代の仲間ですか? 谷中 もちろん先輩です。1年でも上だったら、自分にとっては先輩なので。民生さんは「谷中が1年下でよかった」って前に言ってました。「谷中が上だったら大変なことになってた」って(笑)。 ――縦の関係はやっぱり大切なんですね。 谷中 僕はそうですね(笑)。だから本人を前にしていなくても「民生さん」。呼び捨てにしたことは一度もないです。 ――93年にユニコーンが解散して、翌94年に民生さんはソロデビューしました。ソロデビュー以降の民生さんをどう見ていましたか? 谷中 つねにテレビのランキング番組でミュージックビデオが流れていて、すごいなと思ってました。しかもソロになったからといって気張るわけではなく、あくまで自然体。いつもの民生さんのまま、チャートで1位になっていたりするのがカッコいいなって。さすがですよね。