レスター、岡崎の海外挑戦の原点は、本田の存在
今から5年前だ。 アルベルト・ザッケローニ監督のもとで、アジアカップ・カタール大会を制してから一夜明けた2011年1月30日のドーハ国際空港。清水エスパルス所属だったFW岡崎慎司は、日本へ凱旋する他のJリーガーたちに笑顔で別れを告げて、ドイツへ向かう便に乗り込んでいった。 DF今野泰幸(当時FC東京)は、カタールの地で意気揚々としていた岡崎の様子をこう語ってくれた。 「ずっと海外に行きたい、行きたいと言っていたので。念願の海外移籍だったからこそ、『やってやるぞ』みたいな感じでしたね。大会を通して岡崎のプレーは、本当にすごかったですよ」 大会序盤こそ右MFで松井大輔(当時グルノーブル)の後塵を拝し、ベンチスタートを余儀なくされていたが、松井の故障離脱とともにレギュラーの座をゲット。サウジアラビア代表とのグループリーグ第3戦ではハットトリックを達成するなど、2大会ぶりのアジア制覇の原動力になった。 もっとも、空港での別れ際には期待だけでなく、一抹の不安も胸中に同居させていた。今野によれば、岡崎はこんな言葉も残していたという。 「何が起こるかわからないけど、ほぼ決まりでしょう、と」 岡崎が確実だと強調していたのは、ブンデスリーガのシュツットガルトへの移籍。冬の移籍市場が1月31日で閉じるなかで、駆け込みでの交渉成立を目指して機上の人となったわけだ。 実際にその日のうちに3年半契約での完全移籍が発表され、岡崎本人も出席して記者会見も行われた。しかし、岡崎の代理人から報告を受けていなかったエスパルス側は、当然ながら不快感をあらわにする。 移籍に必要な「国際移籍証明書(ITC)」が日本サッカー協会を介してドイツ側へ届かなかったため、ブンデスリーガでのデビューが2月20日にずれ込む事態が生じた。こうしたエスパルス側の対応が、おそらく岡崎が危惧していた「何が起こるかわからない」に当たるのだろう。 このときの一件もあって、岡崎がプロとしての第一歩を踏み出し、6シーズンもプレーしたエスパルスのクラブハウスを再び訪れるまで、実に4年ものブランクが生じている。 当時の岡崎は24歳。半ば強引に海外へ飛び出した理由は、2010年のワールドカップ南アフリカ大会にある。岡崎にとって初めてのヒノキ舞台は1ゴールこそあげたものの、大会直前にワントップの座を本来は中盤の本田圭佑(当時CSKAモスクワ)に奪われ、不完全燃焼のまま日本へ帰国していた。 岡田武史監督に率いられた日本代表が下馬評を覆し、ベスト16へ進出した余韻がまだ色濃く残っていた同年夏。4年後のワールドカップ・ブラジル大会へ向けて、岡崎からこんな言葉を聞いた。 「このままJリーグでやっていても、ブラジル大会では結果を出せないと思う。海外の厳しい環境のなかでサッカーをやらないといけない。ワールドカップはまったくの別物。これからの4年間で世界を味わうかどうかで、まったく違ってくる。 いい選手がどんどん出てくるし、その意味でも自分が次のワールドカップに出られる保証もない。そのなかで自分も下ばかりを見るのではなく、世界を見すえてやらなきゃいけない。いつチャンスが訪れるかわからないけど、僕は昔から世界に出ることを考えていたし、いつかは世界のナンバーワンストライカーになるという野望を、無謀にも抱き続けてきたんです」 可能ならば、いますぐにでもヨーロッパのクラブへ移籍したい。岡崎を駆り立てていたのは、同じ1986年生まれの盟友、本田の存在だった。