レスター、岡崎の海外挑戦の原点は、本田の存在
すでに2008年1月から、本田は活躍の場をヨーロッパへ移していた。VVVフェンロー(オランダ)を経て、CSKAモスクワの一員として出場したUEFAチャンピオンズリーグでのプレーが岡田監督をも魅了。瞬く間に日本代表における大黒柱となった。 同世代のトップランナーとなった本田の存在を、岡崎はこう語っていた。 「うらやましいというのもあるし、同時に悔しい思いというのもありますね。圭佑とは国際電話でたまに話をするし、向こうから電話がかかってくることもある。圭佑も僕のことを見てくれているし、もちろん僕もアイツを見ている。意識し合うという意味では、同期の存在というのは大きいですね」 南アフリカの地で力不足を痛感させられたからこそ、本田の背中を必死においかけ、少しでも距離を縮めたい。J1で3シーズン連続2桁ゴールをマークしたこともあって、岡崎の視線は必然的により高いレベルへと向けられたわけだ。 岡崎のサッカー人生を振り返れば、選択肢が2つあった場合、迷うことなく厳しいほうを選んできた。サイズは174cm、76kg。フォワードとして決して恵まれたものではない。50m走でかろうじて7秒を切る程度だったが、周囲から猛反対されながらも全国から有望選手が集まる名門・滝川第二高校を志望した。 実際、同校のセレクションを受けた際には、黒田和生監督(当時)から「最上級生になっても試合に出られないかもしれないぞ」という言葉をかけられた。しかし、1年生にしてレギュラーを獲得して、2つ上の兄、嵩弘さんとツートップを組んで全国高校選手権のベスト4に進出した。 卒業時にはヴィッセル神戸からもオファーを受けたが、「地元のチームだと甘えが出る」と固辞。あえて選手層が厚いエスパルスで、8人いたフォワードの8番目から鮮やかに下剋上を果たしてみせた。その過程では、長谷川健太監督(当時)からサイドバックへの転向を勧められたこともある。 そして、ポジションが約束されたエスパルスから、ゼロからのスタート、しかもシーズン途中の加入となるシュツットガルトへの挑戦でも同じ図式が描かれている。 「自分は本当に負けず嫌いなので、はい上がっていく環境にいたほうが自分には合っている。目標が高いほどに気合いが入る。成功へ向かう過程が大事だと思っているので」 自らのポリシーを語る岡崎に対して、こんな質問がぶつけられたことがある。かなりの「M気質」の持ち主なのでは、と。岡崎は「どうでしょう。あります……かね」と人懐こい笑顔を浮かべていた。 中田英寿(ボルトン・ワンダラーズ)や香川真司(マンチェスター・ユナイテッド)をはじめとする、数多くの日本人選手が満足のいく結果を残せなかったプレミアリーグへの挑戦を決めたときも、おそらくは生来の「M気質」がうずいたのだろう。 イギリス大手ブックメーカー、ウィリアムヒル社による開幕前の優勝オッズは何と5001倍。イングランド史上における最大の番狂わせとして、レスター・シティの創設133年目でのプレミアリーグ初優勝は世界中に驚きを与えた。 歓喜の輪のなかで眩い輝きを放った岡崎の笑顔は、少年時代から常に心のなかに脈打たせてきたチャレンジャー精神と、盟友・本田の背中に触発され、芽生えさせた飽くなき向上心に導かれたものだった。 (文責・藤江直人/スポーツライター)