【連載】なぜ男女の揉め事は拗れるのか、三浦瑠麗氏が考察/「男と女のあいだ」#4 分かり合うことはできないのに
国際政治学者やコメンテーター、そしてエッセイストとしても幅広く活躍する三浦瑠麗氏によるエッセイ「男と女のあいだ」。夫と友人に戻り、「夫婦」について改めて思いをめぐらせるようになったご自身のプライベートや仕事、過去を下敷きに「夫婦」を紐解いてゆきます。連載第4回は、「男女の理解」についてお届けします。 【写真】カナダ滞在中に訪れたパシフィックノースウェストの海岸 本人提供写真 ■#4 分かり合うことはできないのに 女は不可解である、といわれる。こちらから見れば男も不可解である。不可解とは、論理に遵(したが)って読み解くことができないということ。最近でこそ、そんなことを述べにくい雰囲気も出てきたが、いまだに真正面から「女は非論理的だ」と断じる人もいる。 しかし、そもそも人間の論理というのはそんなに確かなものだろうか。共有された定式的な表現方法を通じて、何となく分かり合っているかのように思い込んでいるだけではないだろうか。 論理的思考は物事を抽象化する能力を必要とするけれども、それは常に何かを捨象することで成り立つため、事象を説明しきることは決してないし、論理だけで人間の考えが成り立っているわけでもない。論理的な正しさというのは、いくつかの前提を受け入れたうえで、様々な条件を積み重ねた限定的なものでしかないからだ。それに、感性を抜きにして論理のみで世界を把握し理解するのは、料理から匂いや見た目を消し、言葉から音を奪うことに等しい。 感性がいかに多くの領域を占め、わたしたちの自己定義やコミュニケーションを扶(たす)けているか。それを知るには、論理的に説明できないものを伝える際のもどかしさを体験してみればいい。例えば、自分が見た夢を言葉にしようとすると、あの微睡(まどろ)んでいる最中(さなか)に受けた感じがまるで再現できないという経験をした人は少なからずいるだろう。「あの感じ」が表現できないということに苛立ちを覚えるのは、その夢を見ていない人に共有したくても、言葉にするのでなければなかなか他に方法がないからだ。 言葉にせずとも伝わるものはある。例えば、赫々(あかあか)とした大きな太陽が林立するビルの向こうにゆっくりと沈んでいくのが見えるとき、傍らの人にその感じを伝えたければ、あ、と言って指さすだけで足りる。その人は「すごい夕陽だね」と答えるだろう。それで通じるのは、その人もいま同じものを見ているからである。また、日記に「今日の夕陽は赤くて大きかった」と記したとすれば、それを読む人にはどんな感じだったかがすぐ分かる。共通体験としての「あの感じ」が言葉の不足を補ってくれるからだ。それは目の錯覚に過ぎないのだけれども、わたしたちは赤い夕陽が大きいことを「知っている」。人生の中で、幾度かにわたってそれを経験してきたからである。 けれども、見たことのない他人の夢について語られたとしても、話者の語彙や表現力でそれを描写するのには限界があり、相手がそれを理解する可能性は著しく低い。つまり、感性のほとんどは「体験」によって見いだされ、その中でも言葉や旋律や映像に転換されえなかったものは、捉まえたと思ったそのそばから指先をすり抜け失われてゆく。だから、目覚めた直後には、あれだけ覚えておきたいと思った夢の「あの感じ」をわたしたちはなかなか覚えていられない。わたしたちの脳は、発達という名のもとに取捨選択する。論理的思考のみを追い求めるのは、ある種の「発達」した知性ではある。論理を共有できる相手のあいだでは、抽出された伝えるべきものが比較的通じやすい。ただ、留意すべきは、それは相手の内なる世界のごく一部でしかないということだ。 ◆ 男女に限らず、人はもともと偶(たま)さか分かり合える存在にすぎないといえよう。男と女が分かり合えず、そこに語り得ぬものがあるというのは、共感の元となる共通体験を著しく欠いているからである。そして、男と女の揉め事がこじれがちなのは、分かり合えない原因をその欠落に求めずに、論理で相手を打ち負かそうとするから。両者の壁を乗り越える方法は本質的には見つからないのだが、だからといって語ることが無駄であるとは思われない。物の感じ方は人により異なるけれども、適切な言葉が充てられることで火花のように瞬間的に通じ合うことがある。 もちろん、語る上ではその適切な「言葉」を見出す必要がある。伝えるのに適した正確な表現。それに先立ち、自らの感じとったものにきちんと分析的に言葉を充てていくということ。その表現によって感覚が見出され、他者と共有することも可能になる。ここでいう正確であることは、事実であることとは違う。先ほどの夕陽の譬(たと)えで言えば、夕陽が赤くて大きいというのは、人の目にはそう見えるという印象であって必ずしも事実でないが、広く共有された「感じ」であることは間違いない。男と女には、限られた共通体験に想像力を補完して、だんだんと分かっていく過程が必要なのである。 ちなみに、人間というものの特性を考えると、この「だんだんと」というのは見かけ上の響きよりもだいぶ重要なことだと思っている。ここまでの記述を仮に一文に要約してみたらどうだろうか。 「男と女は最終的には分かり合えないが、それは性によって人生における経験が異なるからであり、過去の経験や自分の感情を言葉で表現し、共有することは無駄であるとはいえない」。 この一文だけを読んで分かったと言える人は、すでに幾度かにわたってこうしたテーマを扱う著作に触れたり、考えたりしたことがある人だろう。おそらく考えが沁み込むには一度だけでは足りず、再三読み返したり、自分の経験に照らし合わせてみたり、会話の中で誰かに指摘されるという作業があったのかもしれない。 あるいは、「分かった」と思っていても本当はそうではない場合もある。論理をなぞって主張の整合性を確認し、矛盾や遺漏(いろう)が少ないと結論づけたにすぎず、別の場面ではまったく逆行する主張に賛同したりする人もいるかもしれない。人間が物事を「分かる」という過程は、言えば分かるだろう、というほど簡単なことではないのである。 だからこそ、様々な方向から問題にアプローチし、言葉を幾重にも重ねる。正確な表現を模索し、他者に向けてその意味するところを照らし出そうとする。念のためにことわっておくと、ここでいう正確さとは、(限定された対象範囲における事実の認定と論理展開の正確さを意味する)学術的な「厳密さ」とは意味合いが異なるし、正義としての「正しさ」とも関わりがない。 正確さと正しさがどのように異なるのかについては、もう少しだけ言葉を足しておく必要があるだろう。本連載を貫くテーマであるところの、男女の問題にどのようにアプローチするかという手法の違いにも関わってくるからである。 言葉の正確さを追い求める人は、過去の創作物を読み耽り様々な言葉の用法を会得し、引用に新たな創作による発見を加え、自らの言語表現を確立させてきたという歴史がある。それでもまだ語りきれないと感じ、自らの認知の歪みを知り、あるいは言葉を操る人間の暴走を目撃することで知の限界を認識し、その恐ろしさについても語ってきた。 ところが、そこへ正義が割って入るとどうなるか。本来、べき論と表現の多様性とは相性が悪い。べき論を極限まで推し進めれば、「全ての人が、誤解が何もないように、正しい話法でもって、この一つの正しい真実を発話すべき」ということになるから、言葉は瘦せていく。 例えば、女性の権利意識の自覚によって新たに広がった「ものの感じ方」の領域は実に大きかろう。人口の半分を占めていた人々の声なき声に言葉が与えられ、家事育児労働の内実から、差別の炙り出し、母であることと働くこととの両立の困難さまでが語られるようになるからである。わたし自身、過去の女性作家の著作物に触れることで、そのような言葉を内に育てていった。だがその反面、女性問題の正義が十分に認知されて定説と化していけば、その視角によって見出されるものと失われるものとのバランスは崩れていく。本当は、男女の差について記述することも、女性についてあるいは男性について記述することも、難しいからである。常に語りえないものが残り、手探りの状態であると思わねばならない。ただ、人文の観点からすれば、多様な感覚は興味深い題材となるが、正義の問題となれば、感じ方の逸脱は不正な権力の「内面化」であるとされやすく、仮に女性であったとしても批判の対象となる。すると、批評はそもそも不可能である。 ◆ かくして、正義が打ち立てられると、安全の観点から誰もが口を開けば同じことしか言わなくなるので、自らも完全には掴めきれていない多様な感覚の模索や、異なる見地からのコミュニケーションの意義は失われる。正義に対するカウンターもまた激しくなり、こちらも同じくひとつ事しか言わない。声高な反対者もいるのに、どうして多様性が失われるのかというと、正義というのは文学とは違って「自ずと明らか」なものであり、則ち「万人が分かるものでなければならない」と考えられがちだからだ。すると、大多数の人は自分がすぐに理解できないもの、予め知らされていないもの、定式表現からの逸脱は、間違っているのに違いないと思い込む。 正義の応酬が続くと、自らとは異なる感性の広がり、知覚の深度を他者が持っていることを許容しえなくなる。近年とみに進んだ現象だ。そうやって、事物や感じ方の複雑さは排除されていくのである。現代に生きるわたしたちのコミュニケーションは、ただでさえ大変な不自由をきたしている。SNSで正しさをぶつけあう諍いは観客を必要としており、その観客を意識した結果として擬態し、大勢が共感可能な型に自らを嵌め込む。その結果、自らの望みにはつれなくしてしまう。今は望みよりも何よりも、相手を糾弾する正義こそが王者なのである。そのような形で、果たして男女のあいだに横たわる問題が解決できるだろうか。 正義のぶつけ合いが解ではないのだとすれば、一体どんな言葉で何について語ることが必要なのだろうか。男と女が交信するうえで、互いを理解する「共通言語」として論理的説明を用いれば、ある程度の助けにはなる。けれども、それは時にどちらかの論理を受け入れる結果を招き、もう一方がそれに寄り添う非対称な関係をもたらすこともしばしばである。論理は話者により合目的的に選び取られた言葉であるし、論理をこじつければ、それは意思を通すための理屈でしかない。世の中の男女の諍いの多くに付き纏う問題だろう。自己中心的な人ほど、自らの論理体系を崩しはしない。そういう共感能力を半ば欠いている人に共感を求めるのは、そもそも無理なことなのかもしれない。 過去を振り返れば、わたしはしばしば妥協を重ねることで、付き合っている男性の好ましくない言動を放置してきた。それは自己主張が苦手であるからではなくて、私的な諍いやトラブルがとにかく根っこから嫌いだからである。男女間の論争は、諍いが嫌いな人がひとまず折れることになりやすい。人によっては、譲ることによる損失よりも、諍い合うことの不快さの方が大きいからだ。それでも、わたしに我がないわけではないし、その人の許(もと)を去らないというわけでもない。 相手に自分の失望を真(まこと)のかたちで伝えるというのは、どこか愛を伝えることに似ている。落胆した、というのはいわば期待の羽根で覆われた翼が捥(も)がれた状態だ。それが捥がれた痛みを必死に伝えようとする仕草は、自分ひとりでその痛みを抱えきれず、相手に救済を求める呻きなのだといってもいい。愛のかけらがまだ残っているとき、女は男に失望を伝えようとする。様々な女の例を見る限り、それが応えられないでいる場合には、いつしか憎しみに変わっていくこともありうるだろう。そうなる前に、男女はきちんとコミュニケーションを図るべきである。 本当のコミュニケーションは、相手が何を望んでおり、自分自身が何を望んでいるかを悟るところから始まる。あとから拵(こしら)えられて現実問題に落とし込んだ目的ではなく、その基となる望みを自らが理解することで、相手に対する伝え方も一段と深くなる。だが、望みは何ですか、そう聞かれて咄嗟に忌憚なく本心を答えられる人は少ないのではないか。さらに言えば、わたしたちは自らの望みを知覚できているのだろうか。 女は一体何を求めているのだろう。女が目の前の男に要求するものは、たいていちょっとした気遣いや感謝の言葉、相手の立場に立った慎み深い配慮といったものでしかない。だが、わたしたちがそういう素質をまるで持たない男にも惹かれていってしまうのは確かで、そうしてみると、女は常にないものねだりをしているに等しい。口にすることと、心奥にとどめられた本音とが食い違い、異なる種類の欲望が嚙み合わないままにこじれては、腹の底に溜まっていく。恋愛が終わってみれば、なぜこの人をこれだけ長く好きだったのか、答えられない女は多い。男がもっと思いやり深く変わればいい。それはその通りだろう。しかし、なぜその人を選んだのかについて問われると答えに詰る。 あるいは、わたしたち自身さえも知らない衝動がどこかに潜んでいるのかもしれない。文明という衣を纏うことで、測り難い自らの真意を敢えて突き止めないでおく。丁寧に折られたナプキンやテーブルクロスのアイロンの折り目がわたしたちの共犯者となる。肌なじみの良いクリームが素肌を守るように、女は保身をする。わたしたちは多かれ少なかれ人生の演技者である。だから冒頭書いたように、女は不可解であるという主張は正しいのかもしれない。誰を好きになるかというのは、論理的に説明できるものではないからだ。 男と女は分かり合えない。感情をぶつけ合い、それでも求め合い、相手を傷つけてまでも自らの痛みを曝け出すような関係性を続けるには体力がいる。自分の心にしっかと囲いをし、分かり合えないことを諦めて日々を送る方がよほど楽である。それなのに、余程心は無防備であるとみえる。望みが、希望が人びとを奮い立たせ、再び立ち上がって人生を送ろうと唆(そそのか)す。 ◆ わたしは、恋愛に生きる意味を求めることが出来なかった。その代わり、与えつづけることを選んだ。一見、無償の愛のように見えるもの。それは通り過ぎていく愛である。雨のようにただ降って、砂地に染み込む。通り過ぎていく愛だからこそ再生できるのだともいえる。それは、どんな目に遭っても恨みを持たないで生きようとしたからだった。それでもなお、こだわりを捨て去ることはできない。こだわりを捨てるときは心を失くす時だからだろう。そんなふうにして、まだ生きることにこだわりつづけている自分を観ている。 これまで幾度かの恋愛で破局を経験してきた。理由のない破局などないが、多くの場合は良き友人となった。それはわたしの狡さでもあるのだろう。赦す、というのはある意味においては自分や相手に嘘をつくことである。相手に赦されているわたしもまた嘘をつかれているのだろう。赦すというのは距離を置くこと。男性は何を望んでわたしのところにいたのだろう、とふと思う。それは案外、何も求められないこと、それでもわたしに愛され続けていること、というようなことだったのかもしれない。それを男の愛と呼ぶのなら愛なのかもしれない。 ある時のことを懐かしく思い起こす。朝目覚めて、瞬間にその人を愛していると思った。けれどもまだ気怠い眠気の中、夢と現実の狭間に揺蕩っている寝顔を見て言葉は無駄であると悟った。愛しているという言葉はまるで望みの化石のようだ。愛を求める仕草が却ってその愛を台無しにしたりする。だから、その人が朝早く海に出る前にもう一度その腕の中で眠りにつくことの方を選んだのだった。愛を捉まえ、留めおくことはできない。その行方すら、明日は知れない。人は心変わりをし、死に逝き、そして還らない。それなのに、懲りもせず人は愛する。そうやって深い谷を刻んでゆく。