銅板製の折り鶴と亡き坪井直さんらの思いを胸に ノーベル平和賞授賞式に臨む箕牧智之さん
ノルウェー・オスロでのノーベル平和賞授賞式に参加する日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員、箕牧(みまき)智之さん(82)は先人への思いとともに現地に到着した。「みなさんが元気なうちに受賞できたらもっとよかった」。核兵器廃絶を訴え続けてきた先輩らに見せたかった晴れ舞台。先立った先人が訴え続けた思いを胸に、改めて核兵器廃絶を世界に求める。 「よく作ってくれたね。ありがとう」。授賞式の約2週間前、箕牧さんは広島みらい創生高校の生徒2人から銅製の折り鶴を受け取ると、笑みを浮かべた。ノーベル賞委員会のフリードネス委員長に手渡すためのもので、厚さ0・1ミリの銅板製で高さは4センチほど。平和賞の受賞決定後に交流がある同高校の教諭に製作を依頼し、約1カ月で完成した。研磨作業を担当した定時制4年の桑元陽(はる)さん(21)は、「広島のことを考えながら手に取ってほしい」と思いを鶴に託す。 平和記念公園内に多くある折り鶴だが、平和のシンボルとして考えられるきっかけには、被爆後に白血病で亡くなった少女、佐々木禎子さんの存在がある。佐々木さんは、被爆から10年後の小学6年のときに白血病を発症。病床で鶴を折り続け、亡くなった。3歳で入市被爆した箕牧さんも小学5年のとき40度の原因不明の高熱が続き、約3カ月学校を休んだといい、佐々木さんの姿を自らに重ねる。「もしかしたら佐々木さんも助かったかもしれん」とひとごとではなかった。 平和賞の受賞が決まった10月11日、被団協の受賞が信じられず、思わず頰をつねった。そこから約2カ月、核兵器廃絶を訴え続けてきた先輩たちを思い返してきた。 「核と人類は共存できない」と訴え、平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑を背に、座り込みを続けた日本被団協の初代代表委員、森滝市郎さんや「ネバーギブアップ」の言葉とともに核廃絶運動を牽引(けんいん)し、平成28年には当時の米国のオバマ大統領と広島で面会した坪井直(すなお)さんらだ。「何もないところから、世界に被爆者の存在を伝えてくれた。みなさんが続けてきたことが認められたからこその受賞。彼らのことを忘れてはいけない」 今年で82歳となる箕牧さん。心臓に持病を抱えるが、「こんなチャンスは二度とない」とオスロでの授賞式に参加する。それは現地で、訴えたいことがあるからだ。
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