「存命だったら還暦」…JCO臨界事故から25年、被曝の治療にあたった医師は今も遺族と文通続ける
茨城県東海村で発生したJCO臨界事故は、30日で25年がたった。前例のない大量の放射線を作業員が浴び、犠牲者が出た国内初の原子力事故。治療にあたった東京大名誉教授の前川和彦さん(83)は遺族との文通も続けており、「原子力防災の未来を考えるため、医師としての経験を伝えていかなければならない」と改めて気を引き締める。 【写真】「臨界」の発生条件を調べる装置「STACY」改造終了
(水戸支局 大井雅之、市川莉瑚)
「受け答えもしっかりできて重症には見えない」
事故翌日の1999年10月1日、最も被曝(ひばく)量が多いとされた作業員の大内久さん(当時35歳)の様子を初めて見た時、前川さんが受けた印象だった。だが、大内さんは白血球に占めるリンパ球が減り、免疫力や感染症に対する抵抗力も低下していた。
自身が委員長だった放射線医学総合研究所(当時)の「緊急被ばく医療ネットワーク会議」で協議した結果、すぐに集中治療が必要と判断し、東大病院で受け入れることを決めた。
大内さんは間もなく東大病院へ転院。次々と医師や看護師らが出入りし、採血や検査が繰り返されると、「これからどうなるのでしょうか」と不安を漏らしたという。骨髄の機能を改善する末梢(まっしょう)血幹細胞の移植は成功し、白血球数は回復したものの、人工呼吸器による厳格な管理が必要となった。右腕を中心に皮膚の表皮も失われた。
「やれることはすべてやる」と考えた前川さんは、海外から取り寄せた薬品を使うなどあらゆる治療法を取り入れた。大内さんの顔が出血しやすくなると、丁寧にガーゼで覆い、毎日のように病室を訪れる妻と面会できるようにした。
事故から83日目、大内さんは息を引き取った。司法解剖の結果、死因は被曝による多臓器不全だった。被曝量は推定18シーベルトで、一般的な人が1年間に許容される約1万8000倍とされた。粘り強く治療を続けた前川さんだったが、事故の大きさや治療の困難さに「最後は無力さを感じた」。その後、東大病院に転院した篠原理人さんも2000年4月に40歳で亡くなった。