アメリカでは「テクノ・リバタリアン」が台頭も…日本の起業家がシリコンバレーでチャレンジしない意外な理由
「奇妙な日本の言論空間」
そもそも日本ではリバタリアニズムという政治的主張そのものの認知度が低い。 「日本の言論空間が奇妙なのは、“よりよい社会”“よりよい未来”のイデオロギーがいまでもマルクス主義しかないことです。若い世代ですらマルクス再評価の声が高まっているそうですが、手垢にまみれた『共産主義』や『革命』以外の選択肢(希望)を示すことができないこの国の思想の貧しさを表しているのではないでしょうか」 フランス現代思想は昔から日本でも多く紹介されている印象だが、 「私が大学に入ったのは1977年で、ちょうどマルクス主義からポストモダン思想への転換期でした。大学に残って大きな顔をしている全共闘世代への反発もあって、社会科学系のサークルでは、みんなが大挙してレヴィ=ストロースやミシェル・フーコー、ジャック・デリダやドゥルーズ=ガタリを難解な翻訳で読みはじめた。私もその一人でしたが、不思議なのは、それから半世紀近くたっても、日本ではサブカル批評にかたちを変えて、ずっと同じことが続いていることです。 日本の言論空間では、ヘーゲル、マルクスからフランス現代思想に至るまで、ヨーロッパ(大陸系)の哲学ばかりが偏愛され、功利主義やプラグマティズム、リバタリアニズムなど英米系の思想は無視されるか、論ずるに値しないものとして扱われてきました。 1970年代からアメリカやイギリスを中心に進化生物学や遺伝学の大きな進展があり、人間や社会に対する見方が大きく変わりました。ところが、アメリカのアカデミズムを揺るがした社会生物学論争も日本ではまったく注目されなかった。1976年に発売されたリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』も最初の邦題は『生物=生存機械論』で、ようやく話題になったのは1991年に『利己的な遺伝子』と改題されてからでした。 20世紀後半から、脳科学、遺伝学、生物学などのハードサイエンスによって、人間の本性や社会の仕組みが進化の観点から解明されるようになりました。しかし日本の人文科学系は、こうした潮流から完全に脱落して、いまも古色蒼然たる議論を続けています。テクノ・リバタリアニズムとは、世界をハードサイエンスで理解し、最適設計していこうとする思想なのですから、これではいま世界でなにが起きているのか日本人が理解できないのも当然です」