上皇ご夫妻による「葵祭」の観覧は、ただの見物ではなかった 平安からの伝統が現代に復活?
葵祭は「賀茂祭」とも呼ばれ、石清水祭(京都)、春日祭(奈良)と並んで「三大勅祭」とされる。勅祭とは何か。辞書を引くと「勅命によって行われる祭事」とある。 時の天皇が「勅使」を遣わすのは、現代に至るまで変わらぬ伝統で、宮内庁に問い合わせてみるとこんな説明をされた。 「毎年、天皇陛下が掌典を勅使として派遣しています。勅使は下鴨神社、上賀茂神社で行われる『社頭の儀』でご祭文を奏上します」 掌典とは、祭祀をつかさどる内廷職員。宮内庁の公務員ではなく、天皇家の私的な職員の扱いになっている。 ここで話が少しややこしくなる。天皇陛下の勅使が派遣されるのは、行列が市内を練り歩く「路頭の儀」ではなく、あくまで両神社で行われる「社頭の儀」の方だ。東京から来た勅使は行列には入らない。 京都宮廷文化研究所代表理事で京都産業大の久禮旦雄准教授が解説する。 「路頭の儀では、近衛使代が勅使列の中心として馬に乗って進みますが、これは東京からの正式な勅使ではなく、いわば勅使を模したものです。神社に着いて楼門に入ると横に控え、神前でのお祭りの際は宮中から派遣された掌典が勅使として、紅色の紙に書かれた天皇からの『祭文』を読み上げます」
勅使が関係する以上、今回の上皇ご夫妻の観覧は、単に地方訪問先で、その地の名物の祭りを見物するのとは性質が違う。久禮准教授は「葵祭を、いわば宮廷行事の一環として理解することは非常に大事だと思います」と話している。 ▽昭和天皇も、平安時代の上皇も観覧 宮廷行事の一環ならば、現在の上皇さま以外にも、天皇や皇族がこの祭りを見物したことはあったのか。調べてみると、1965(昭和40)年5月15日に昭和天皇が観覧していた。当時の資料によると、テントはなく、今回とほぼ同じ場所に白い布をかぶせたロイヤル席のようなものを設置していたようだ。昭和天皇は、全国植樹祭を目的とした鳥取県訪問の帰りだった。「昭和天皇実録」を調べてみると、記載があった。 「御朝餐後、仙洞御所の庭を御散策になる。(中略)午前九時五十七分、京都大宮御所をお発ちになり、建礼門前の御観覧席に臨まれ、葵祭行列協賛会参与猪熊兼繁より説明を受けられつつ、葵祭の行列を御覧になる」