上皇ご夫妻による「葵祭」の観覧は、ただの見物ではなかった 平安からの伝統が現代に復活?
記載によると、秩父宮妃、高松宮、高松宮妃、三笠宮妃ら皇族方も一緒だったという。 昭和天皇に説明をした猪熊兼繁氏は、当時京大教授だった。 そして、今回の上皇ご夫妻の観覧では、その次男で考古学者として名高い猪熊兼勝氏が案内役を務めた。兼勝氏は「葵祭行列保存会」の前会長。猪熊家はもともと京都の旧家だったが、戦国時代の幕開けとされる「応仁の乱」で焼け出され、四国に移住。江戸時代に高松松平家の庇護を受けた後、幕末に京都に戻った。朝廷や公家の礼式や行事を研究する「有職故実」を代々の「家学」とし、兼勝氏の曽祖父は明治天皇に進講したこともあるという。 葵祭は、平安時代の上皇も見物していたようだ。久禮准教授によると、平安後期の白河上皇や、鎌倉期の後嵯峨上皇が桟敷を設けて見物した例があり、退位後の上皇が行列を見ることはしばしば行われていたという。 現在の上皇ご夫妻はこうした事例を知っていたのだろうか。もしそうだとすれば、平安、鎌倉時代に見られた「祭りを楽しまれる上皇」というあり方が現代に復活したと言えるのかもしれない。
▽東京からの勅使、なぜ行列に加わらない? ところで、行列を見ながら私が疑問に思ったことがある。せっかく皇居からご祭文を託された勅使が派遣されるのなら、なぜ「路頭の儀」で行列の中に入らないのだろうか。 猪熊氏の見方はこうだ。「明治時代の祭り再興以来の伝統を踏襲しているからです」 天皇が京都から東京に移り、祭りで勅使が京都御所を出発することがなくなると、代わりに祭りに加わる人が必要になった。それが「近衛使」の代わりである「近衛使代」として定着し、「近衛使代」と「勅使」が分離する現状に至ったのだという。現在の勅使は東京から新幹線に乗ってやってくる。 もう一つ気になったのは、近衛使代を務める人だ。一体、どんな人なのだろうか。この点も、猪熊氏が教えてくれた。 「旧公家の中でも平安時代から続く京都ゆかりの家々から近衛使代が選ばれています」 祭りは応仁の乱で途絶し、江戸時代に復興。明治時代にも途絶した時期があったが、再興。戦中に中断したものの、1953(昭和28)年に葵祭行列協賛会の後援を得て「勅使列」が復活。さらに斎王代が創設されるなどして命脈を保ってきた。2000(平成12)年に葵祭行列保存会が創設され、現在に至るまで路頭の儀の運営を担っている。
1500年もの歴史を重ねてきた葵祭の裏には、京の人々の絶え間ない努力があった。今回のご夫妻の観覧は、祭りを支えた人々への皇室からの感謝の念と、京の人々の皇室への敬愛が交錯しているように思えた。