トランプ大統領が離脱表明「パリ協定」とは 坂東太郎のよく分かる時事用語
1997年の「京都議定書」との違いは?
温暖化対策の基点は1992年の国連環境開発会議(地球サミット)です。ここで気候変動枠組み条約が採択されました。毎年、条約参加国が集って「気候変動枠組み条約締約国会議」が開かれます。「COP」(Conference of Parties)と略され、会議の回数を付け加えて表現するようになりました。 97年の「COP3」(気候変動枠組条約第3回締約国会議)は京都市で開催され、先進国に初めて削減の義務を課す決定がなされました。それが「京都議定書」です。温暖化対策をめぐる初の国際的な取り決めで、法的拘束力がありました。 内容は、先進国に対して、2008年から12年(第1約束期間)の年平均排出量を、1990年比で国別に削減義務を課すというものです。日本は6%削減でした。1990年の国別排出量はアメリカ、EU、日本を合わせて47.6%。ロシアを加えると5割を超えていました。したがって先進国だけを義務化するというのも一定の意義があったのです。日本は目標を達成しました。
ポスト「京都議定書」をCOPで議論
京都議定書が終了する2012年が近づくにつれて「次はどうするのか」という議論がCOPで始まりました。先進国の削減と途上国の排出増加、世界全体の排出増という状況の克服が急務になってきます。そこで先述した「先進国vs.途上国」の激しい論議が展開されるようになったのです。 「京都以降」の枠組みを話し合った09年のCOP15は、その構図による激突で挫折。先進国が融和策として提案した「資金・技術支援」に関する合意内容「先進国が2020年までに年間1000億ドルの目標を約束する」でまとめようとしました。「年間1000億ドル」は開催地コペンハーゲンの議長国であるデンマーク首相がオバマ米大統領ら28カ国の首脳へ懇願して出てきた数字です。これが途上国の一部から「カネではつられない」などと反発を招きました。「合意文書作成のプロセスが不透明」と反対する国が出て、コペンハーゲン合意の採択は見送られました。 ただ、この「コペンハーゲンの失敗」は、その後のパリ協定に生かされてもいます。「資金・技術支援」について首脳級会議を最初に設定して、後は閣僚級に任せ「先進国首脳の天の声」ではないように交渉を改めたのです。この頃から島しょ国が自らの窮状を強く訴えるようにもなり「パリ協定」で大きな役割を果たしました。 翌2010年のCOP16は、EUが次善の策として京都議定書延長を提案したのに対して、日本は議定書で削減義務がある先進国の排出量はもはや世界の4分の1強に過ぎず延長しても効果に乏しいと反対しました。途上国は先進国が先に排出を減らすべき、と延長案でいいとの立場。11年のCOP17は13年以降を「第2約束期間」として議定書延期を決めるとともに2020年に効力をもつ、締約国すべてが参加する新枠組みを目指すと決めました。日本は先に述べた理由で延長には加わらないと表明します。 そして京都議定書の期限切れにあたる2012年末のCOP18で確認され、第2約束期間は13年から20年となりました。13年のCOP19で、2年後のCOP21までに2020年以降の新しい国際的枠組みのための削減目標を国連に提出すると合意。14年のCOP20でもその流れは引き継がれるも、削減目標が適切であるかどうかを事前に多国間で検証する会議は反対が多くて開かれなくなりました。そして翌2015年12月、COP21で「パリ協定」採択となります。