日本軍緒戦大勝利の報告が各戦線から到着!雑誌『写真週報』写真だけでなく絵画も駆使して戦果を速報!
昭和16年(1941)12月8日未明(ハワイ時間12月7日朝)、日本の空母機動部隊によるハワイ真珠湾攻撃が行われた。それよりも前の日本時間8日午前1時35分、陸軍上陸部隊1300人を乗せた約20隻の舟艇が、マレー半島コタバルの岸に向かい進発した。こうして日本は大東亜戦争(連合軍側の呼称は太平洋戦争)に突入したのである。 前回、少し触れたように『写真週報』での開戦第一報は、12月17日号であった。とはいえ内容は文字だけの報告に近く、具体的にどこで戦闘が始まったのかというような記事はなく、写真も海軍の演習風景が使われていた。どのようにして開戦したのかが伝えられたのは、次の12月24日号である。 表紙は米英の主力艦隊をわずか3日で殲滅した、新鋭艦上戦闘機(原文ママ・零式艦上戦闘機)の編隊飛行風景である。そして巻頭の扉記事は、日独伊三国の協定をさらに強化したことを伝えている。続く見開きでは、真珠湾攻撃の戦果を絵で紹介している。この時代は写真を通信で送ることができなかったので、画家による戦場絵が多用された。 続くページでは、古賀峯一(こがみねいち)司令長官率いる支那方面艦隊が、上海を攻略した記事が掲載さている。こちらは艦隊報道部が撮影した写真で構成されている。これは単純に真珠湾と上海の、日本との距離の違いであろう。 その他、新たに戦場となったハワイやフィルピンを紹介・分析した読み物記事、マレー沖海戦などが扱われている。こちらもイギリスの新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズが、日本の航空部隊により撃沈されたことが、絵画で紹介している。 戦艦の主砲が目を惹く派手な表紙の12月31日号では、マレー沖海戦の写真が掲載されている。集中爆撃を受けるプリンス・オブ・ウェールズと、撃沈寸前のレパルスの姿を上空から撮影したものだ。その次の見開きページは、マレー半島のジャングルを進軍する日本陸軍部隊の様子を描いた絵画。続いて香港爆撃の様子が、写真で構成されている。 国内のニュースは、鉄を生産するための溶鉱炉を動かすのに、欠かせない炭鉱の増産を担う男たちを夕張炭鉱で取材。また戦地に赴いた男性たちに代わり、女性たちが軍馬の調練を担っている様子を記事にしている。 昭和17年(1942)1月28日号になり、ようやく「ハワイ海戦詳報第二報」と銘打った、真珠湾攻撃の様子を写真で紹介する記事が掲載されている。ただそこに写っている具体的な軍艦名、人物名などには触れていない。 戦場以外の記事も、当然ながら戦時色に染められている。横須賀鎮守府で1月15日に行われた海軍観兵式、○○海兵団の入団式が大きく扱われている。徳島市営バスで車掌を務めていた21歳の女性が、戦地に赴いた男性運転手に代わりにバスの運転を担い始めた、という見開きの記事もある。軍馬調教を女性が担当し始めたという記事同様、女性が国内産業の貴重な担い手となっていることを伝える記事が、目立つようになってきたのだ。 そして2月4日号には、マレー半島進軍の様子を撮影した陸軍宣伝班の写真が届けられている。最前線からの生々しい写真に、当時の読者はさぞかし興奮したことであろう。 この後、シンガポールの攻略がなされたことが記されたのは、それから1ヵ月後に発行された3月4日号である。表紙から「エンパイアードッグで歓喜の万歳を絶叫する○○部隊勇士」と紹介された、シンガポール陥落一色の号なのだ。山下奉文(やましたともゆき)司令官とパーシバル中将の有名な会談風景をはじめ、多くの写真を掲載し詳細を伝えている。 国内記事では東条英機(とうじょうひでき)首相を筆頭に、さまざまな職場や街角で万歳が唱和されている光景を紹介。長らくイギリスのアジア支配の拠点であったシンガポールを、日本の手で攻略したことへの言いようのない大きな喜びを、誌面いっぱいで伝えている。 まさしくこの頃が、日本の絶頂期であったことが窺える。
野田 伊豆守