『ボストン市庁舎』フレデリック・ワイズマンが作品として永遠化した「理想」の形
当時のボストン市長、マーティン・ウォルシュが映画に刻んだ「理想」の形
さらに『ボストン市庁舎』は、ワイズマンの諸作の中でも極めて異例と言える構造を備えている。それはひとりの特定の人物が、劇中のヒーローのように「主人公」格として立ち上がってくることだ。映画の求心力を担う、その強い魅力とエネルギーを放つキーパーソンこそが、先述のマーティン・ウォルシュ市長である。 「ボストンを国や世界の手本に」とまっすぐ明瞭に語り、アイリッシュ移民としての誇りも忘れない。市井の意見に柔らかく耳を傾け、アルコール依存で苦しんだ自らの過去まで率直にさらけ出す。職員や市民たちの絶大な信頼を得ているカリスマ的リーダー。当時は共和党のドナルド・トランプ大統領の第一期政権下(2017年~2021年)だったわけだが、トランプが推し進める強烈なバックラッシュの荒波に抗う存在として、ワイズマンはこの時期のウォルシュにヒロイックな役割――民主国家の新しいアメリカン・ヒーロー像を託してしまうほど輝かしい希望の光を見たのかもしれない。 ボストン交響楽団ホールにて開催された、2019年のウォルシュの演説はとりわけ感動的だ。「市長の仕事とは何か? 市民に扉を開けることです。どんな人種、信条、階級にも。市を変え、国を変えましょう」――。まるでフランク・キャプラ監督、ジェームズ・スチュワート主演の名作『スミス都へ行く』(39)のクライマックスのような名シーン。 本作の発表に際して、当時のワイズマンは「ボストン市庁舎はトランプが体現するものの対極にあります」とオフィシャルコメントで明言していた。しかしながら――あれからわずか数年の間に、現実はやはり一筋縄ではいかないことを我々は噛み締めることになる。 先にも述べたように、バイデン政権の労働長官就任に伴って“マーティン・ウォルシュ市長が居たボストン市庁舎”は2021年3月で終了。後任には市議会議長だったキム・ジェイニーが代行し、同市史上初となる女性で黒人の市長となったが2021年11月16日に退任。新たに市長選で当選したのは、台湾系アメリカ人のミシェル・ウーだ(ちなみに対立候補だったアニサ・エサイビジョージも非白人女性の民主党員である)。当時36歳という史上最年少にして、史上初のアジア系女性のボストン市長誕生ということで大きな話題となったが、就任後の政策に関しては色々と波紋を呼んでいる。とりわけ物議を醸し出したのが2024年5月の発言。万引きや治安妨害などの犯罪に当たる行為を起訴から除外し、犯罪擁護とも取れる政策を支持すると述べたことで大炎上を巻き起こしたのだ。 周知の通り、2024年11月の米大統領選における民主党カマラ・ハリスの敗北に関しては、「行き過ぎたリベラル」といった言い回しでの分析が相次いでいる。現在のアメリカでは進歩的で尖鋭的な政策への反発や反動が強くなり(加えて停戦を実現できないガザ情勢や経済政策への不満足など、バイデン政権への失望という要因も当然大きいだろう)、結果的に2025年からドナルド・トランプの第二期政権が開始されることになった。政治の安定がいかに脆く、バランスというものがいかに大事か――。それを痛感せざるを得ない現状を我々はいま生きている。 一方のウォルシュは今のところフルタイムで政界に復帰するつもりはないことを公言している。それだけに『ボストン市庁舎』に刻まれた「理想」は、一層かけがえのない指標となったのではないか。時代の困難に立ち向かうためにも、この映画が記録した現実があったことを忘れてはいけない。ワイズマンが作品として永遠化した「理想」の形を何度でも確認したい。 なお東京のアテネ・フランセ文化センターにて、2024年12月6日(金)から計44作品を11期に分けて上映する大特集「フレデリック・ワイズマンの足跡 1967-2023 フレデリック・ワイズマンのすべて」がスタート。やはりワイズマンの豊饒な映画世界はスクリーンで体験するのがベストだ。 文:森直人(もり・なおと) 映画評論家、ライター。1971年和歌山生まれ。著書に『シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~』(フィルムアート社)、編著に『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)ほか。「週刊文春」「朝日新聞」「キネマ旬報」「シネマトゥデイ」「Numero.jp」「Safari Online」などで定期的に執筆中。YouTubeチャンネル「活弁シネマ倶楽部」でMC担当。 『ボストン市庁舎』 地域によっては特集上映にて上映中/DVD発売中 配給:ミモザフィルムズ、ムヴィオラ © 2020 Puritan Films, LLC – All Rights Reserved
森直人(もり・なおと)