《追悼・鳥山明》『ドラゴンボール』で世界中を虜(とりこ)にした、希代の漫画家が描き続けたワクワクドキドキの冒険心
伝説の編集者との出会い
鳥山氏は1955年、愛知県生まれ。子供の頃から絵を描くことは好きだった。当時、近所のおじさんが子供たちに絵の描き方を教える「図画屋」という店があり、『101匹わんちゃん』の絵のコンテストをやっていた。まだ6歳くらいの鳥山氏はそこでディズニーの絵を見て、そのデッサンのうまさに衝撃を受けたという。鳥山氏は一生懸命絵を描き、コンテストに入選する。それがうれしくて、鳥山氏は夢中になって絵を描いた。 小学校の頃は熱心に漫画を読んだが、中学生になると興味は実写のドラマや映画に移り、『ウルトラQ』や『ウルトラマン』といった日本の特撮ドラマ、マカロニ・ウェスタンや『スター・ウォーズ』など、「恋愛もの以外はなんでも観る感じ」だったという。 言われてみると『Dr.スランプ』には、『ダーティハリー』のクリント・イーストウッドっぽいキャラや、ウルトラマンなど、実写出自の多彩なキャラクターも登場する。また鳥山氏の投稿2作目は『スター・ウォーズ』のパロディだった。それに「恋愛要素は希薄」というところも、鳥山作品にずっと見られる特徴だ。 そしてデザイン科のある高校に進み、卒業後はグラフィックデザインの道に進むため広告代理店に就職した。気合いを入れてイラストを描いて残業し、翌日遅刻しては怒られるという日々だったそうだが、当時、靴下やベビー用品などたくさんの広告チラシを見て「モノの形」が分かるようになった経験は、後に漫画を描く上で役に立ったという。
広告代理店は約2年で退職し、その後、収入を得るために選んだ道が「少年ジャンプ」への投稿だった。その理由について「当時はお金が全然なく、賞金目当てにジャンプの月例賞に応募したんです。不純な動機で申し訳ない」と鳥山氏自身は語っている(「ジャンプ流! vol.01 まるごと鳥山明」)。 初投稿作は入選しなかったが、2作目がジャンプ編集部の鳥嶋和彦氏の目に留まる。後に「伝説の漫画編集者」として知られるようになる鳥嶋氏も、当時はまだ入社2年目。若いふたりはコンビとなり、「あたらしい漫画をつくろう」とデビューを目指すことになった。 もっともすぐにデビューできたわけではない。当時、鳥山氏が行った厳しい「修行」は有名で、ボツになったページは年に500枚に達したという。しかし約2年間の鍛錬を経て、確実に漫画力を身につけた鳥山氏は、ついに初連載を獲得。その作品がいきなり大ヒット作になった。1981年に連載が始まった『Dr.スランプ』だ。 この作品はペンギン村という、のどかな村を舞台にしたコメディ。主人公は則巻(のりまき)アラレという女の子のロボットだが、実はもともとの主人公は、彼女を開発した科学者、則巻千兵衛だった。しかし鳥嶋氏の提案でアラレが主人公となったのだが、当初、鳥山氏はその提案を拒否したという。「なんで?」と聞く編集者に鳥山氏は「少年漫画だから」と答えたそうだ。 グラフィックデザイン畑出身だけに、鳥山氏の絵はどこかイラスト的で、漫画らしくない、と見る向きもあったが、カラフルでポップなその作品世界は、読む人に新しさを感じさせた。 そしてイラスト的と見られた絵柄はむしろプラスとなり、たとえばTシャツにプリントされてもカッコいい。ポップカルチャーのアイコンとして、子供だけではなく、大人の間にも支持が広がっていくことになる。 「んちゃ!」「バイちゃ!!」など、作中のセリフは作品を超えて流行語となり、その人気は社会現象となるまで盛り上がっていった。