「もうすぐ死ぬ」という現実。森永卓郎が伝える、悔いのない人生のための“仕事の終活”とは
「俺は森永卓郎が大嫌いなんだ」
社会人になってからの私は、周囲の人からたくさんの刺激を受け、上司からはさまざまな洗礼を受けた。 なかでも私が強烈に影響を受けた人物が二人いる。 一人は私が20代後半の頃に出向していた経済企画庁時代に出会った中名生(なかのみょう)隆という計画官(課長)だ。 赴任してきた彼は部下を集めて「俺がお前達に伝えておきたいことは二つしかない」と話し始めた。 その二つとは、 自信のある仕事は締め切りまで自由にやれ。駄目だと思ったら躊躇せず、俺のところに相談に来い。 良い情報はすぐに伝えなくていい。しかし悪い情報はすぐにあげろ。 というものだった。 つまり、中名生計画官は自信があることに関しては全面的に仕事を任せてくれたのだ。
そのことによって私は俄然やる気になり、連日午前2時3時まで働くようになった。 最後の責任は上司がとってくれるのだから失敗を恐れることもない。 私の思い切った仕事ぶりは、高い評価を受けた。そうなるとますますやる気になるという好循環が始まったのだ。 それにしても中名生計画官の危機管理能力は素晴らしかった。 普段は夜中まで役所に残って、自分の席で、引き出しから取り出したウイスキーを飲んでいた。 だが、ひとたび何かがあると、突然ギアを入れて、どんなときでも適切な指示を出すことを怠らなかった。 その後、中名生氏は、最終的に事務方トップの事務次官にまでのぼり詰めたが、当然の人事評価だったと思う。 もう一人は、2度目の転職先である三和総合研究所で出会った松本和男という当時の創業社長だ。 前職の三井情報開発というシンクタンクは黒字だったが、私が所属していた総合開発部門は利益率が低く、そのことを社長に非難されたため、半数以上の研究員が転職した。
そのなかの一人だった私が転職先として選んだのが、まだ設立したばかりで「荒野」の状態だった三和総合研究所だった。 一方、松本社長は三和銀行での頭取争いに破れ、三和総合研究所に「島流し」にあったという経歴をもっていた。 初対面の時、松本社長は「うちの会社はヒューマニズムに立脚した自由と自己責任を追求することを理念とする」と言った。しかし私には何を言っているのかがわからなかったので、どういう意味かを尋ねた。 すると彼は「君達は研究がしたくてここへ来たのだから自由に研究していい。ただし、うちの会社は株式会社だから資本を食いつぶしたらそこでおしまいだ。君達の舞台はなくなる。だから自由に研究することと、金を稼ぐことを両立させてほしい」と答えた。 それを受けて「どうやったらそんなことができるんですか」と更なる質問を重ねると、松本社長はキレた。 そしてこう言った。「なんで森永を採用したと思ってるんだ。それを考えるのがお前の仕事だ」。 全面的に仕事を任された私は、研究体制を整え、人事制度改革によって経営陣から人事権と評価権を奪い、完全歩合制、研究員の希望で異動先を決められるという仕組みを導入した。