特攻隊員が通った銭湯の女将が建てた菩薩像、廃業後に「行き先見つからない」…熊本市の寺が受け入れ後世へ
太平洋戦争中に熊本市の健軍飛行場(熊本陸軍飛行場)から出撃した特攻隊「義烈空挺隊」の慰霊のために、隊員が通った銭湯の女将が建てた普賢菩薩像が移設して保存されることになった。現在は廃業した銭湯の一角にあるため、菩薩像の行く末を案じた男性が働きかけ、市内の寺が受け入れを快諾した。出撃80年となる来年5月24日までに移す予定で、供養を後世につなぐ。(石原圭介) 【写真】堤ハツさん
「このままにしておくわけにはいかないと思っていた。保存先が見つかって良かった」。女将の孫の堤裕倫さん(61)は10月中旬、菩薩像に手を合わせ、安堵の表情を浮かべた。
菩薩像は堤さんの祖母で、戦時中から営業していた「健康湯」の女将、堤ハツさん(故人)が建てた。
義烈空挺隊は、米軍占領下の飛行場に強行着陸し、施設や敵機を破壊することが任務だった。隊員は出撃までを健軍飛行場の三角兵舎で過ごし、訓練の疲れを癒やそうと銭湯に通った。当時39歳だったハツさんは、5人の若い隊員と交流を深め、風呂上がりに茶を振る舞ったり、話し込んだりしていたという。
健軍で過ごしたのは2週間ほどだったが、ハツさんとの交流は大切な時間だったのだろう。5人は出撃を前に軍服に身を包んで銭湯を訪ねた。「今から出発します。この金は私どもにはもう使い道がなくなりましたから」。谷川鉄男曹長はそう言い残し、代表して75円を手渡した。
「最後の任務に向かい突進致します。御親切に慰めて下さったおばさんの気持ちには感謝のほかありません」「笑って国に殉じ、笑って皆様の御期待に報ゆる覚悟です」
後日、谷川曹長から届いた手紙につづられた言葉に、ハツさんは泣き伏したという。義烈空挺隊は1945年5月24日に出撃。隊員の多くが戦死し、谷川曹長ら5人も帰らぬ人となった。
ハツさんは終戦後間もない45年9月、5人から受け取ったお金を元手に菩薩像を作り、敷地の一角に小さなほこらを設けて安置した。銭湯の名称も「観音湯」に変更し、毎日手を合わせた。堤さんも、ハツさんに言われ、幼少期から拝んできたという。