昭和の大女優・高峰秀子さん「波乱の人生の幕開け」。5歳で死に別れた、母の思い出
ふとした瞬間に浮かんだ、実母のイメージ
斎藤:ただ高峰が33歳で出演した映画『あらくれ』(成瀬己喜男監督、東宝作品)で、思いがけず実母のことを思い出したと言っていました。それは、商店を営む主人公の高峰がお店の帳場に座ったとき、急に実母のイメージが浮かんだと。蕎麦屋料亭をしていた函館の実家で、丸髷を結った母親がいつも帳場に座っていて、そのボンヤリとしたシルエットが自分に重なったということです。 ――『あらくれ』を観たことがあります。成瀬監督の名作のひとつですね。高峰さんの演技は、とにかく圧巻でした。撮影中、じつはそんなことがあったとは、感慨深いです。 斎藤:私が思うに、高峰の実母はとても賢い人だったと思います。でなければ、高峰のあの聡明さは生まれなかったはずですから。 ――たしかにそうでしょうね。そしてお美しい方だったのではないでしょうか。お父様はどんな方だったのでしょう。 斎藤:実父は、ただ人がいいだけの、意気地のない人だったそうです。 ――実母はどんな方でしたか? 斎藤:実母は、秀子を欲しいと言っていた夫(高峰の父)の妹である志げに、まだ、自身の結核が軽かった頃、単身上京して「秀子を差し上げるつもりはありません」ときっぱり断っています。そういう気丈さも高峰は受け継いでいると思います。 ――そうだったのですね。1920年代の当時、函館から上京すること自体、大変なことだった思いますので、意志の強い、立派な実母だったのですね。 斎藤:でもまもなく実母は結核で死んでしまい、その葬儀の翌日に志げによって東京へ連れていかれるんですが…。函館から青函連絡船に乗って青森から東京まで長い汽車の旅をしながら、5歳の高峰は隣にかけている志げを見て幼心に「太ったオバサンだな」と思ったそうです(笑)。 ――5歳の記憶を覚えているとは。本当にすごい方ですね。 斎藤:高峰は記憶力が抜群だったので、そのとき自分が着ていたのはブドウ柄のメリンスの着物で、胸にはアブサン(よだれかけ)をして、穴を開けた小さなメリーミルクの缶をチュウチュウ吸いながら東京まで行ったことを覚えていると言っていました。 ――着物の柄や、メリーミルクの銘柄まで覚えていらっしゃるとは! 恐ろしいまでの記憶力。 斎藤:そして、5歳であの海峡を渡ったとき、高峰秀子の波乱の人生が始まったわけです。
ESSEonline編集部