本郷和人 なぜ<源氏の功労者>義経が兄の頼朝から追討されることになったのか…大人の事情を理解できなかった「義経の失敗」
◆武家の主従制の特徴 それは位階で言うと五位、官職では検非違使の尉(けびいしのじょう)。 警察の高級官僚というようなところですね。トップではないが、警視庁の中の偉い人。キャリアの高級警察官僚というような位置づけです。それで彼のことを判官(ほうがん)と呼ぶわけです。 「判官びいき」の判官の語源ですが、検非違使の長官は「かみ」、次官は「すけ」、3番めの「じょう」=尉が判官と呼ばれるのですね。 ちなみにさらに次は主典(さかん)。一方、五位は大夫(たゆう)と呼ばれます。つまり義経は大夫判官という官職をもらったわけです。 しかし、これがまずかった。当時の頼朝が、なにを構想していたかというと主従制。主従制とは主人と従者の関係。これを構築することが彼にとっての最大の課題だった。 「主人と従者という意味なら、平安時代における朝廷の天皇と貴族の関係も主従では」などと思われたかもしれません。 武家の主従制のどこがオリジナルかというと、それは「命懸け」にあった。 主人が従者に御恩を与える。従者は主人のために奉公をする。これが主従関係の基本ですが、武家の場合は、その主人に従う際に命懸けの奉公を行うことになるのです。 具体的にいえば、戦争に出て、命を投げ出すことになる。 ここはよく勘違いされるところですが、戦場に出て敵の首しるしを取るなどして手柄を立てる、ということが奉公ではないのです。そうではなく、将軍の馬前で、つまり将軍が見ているところで討ち死にを遂げる。それでいい。 手柄を立てることではなく、自分の身を犠牲にして、献身的な振る舞いをすることだけで、それで十分に命懸けの奉公として数えられることになります。
◆土地と官職 それをやってくれると、たとえば源頼朝のような「主人」は、その死んだ武士の、残された家族などが所属する「家」にごほうびを与えて報いる。具体的には土地を与えることになるわけです。 そうしたかたちで築き上げられたものが武士の主従制。この関係が全国の武士と頼朝との間に設定されることによって、頼朝は武家社会のトップ、将軍として君臨することが可能になる。 しかし、本来この主従制は、必ずしも頼朝とだけ結ぶ必要はない。たとえば平清盛と結んでもいい。だからこそ頼朝は、自分だけがトップに立つために平家を滅ぼしたわけです。 平家だけではなく、関東においては源氏の名門として自分の対抗馬になり得る常陸(今の茨城県)の佐竹を滅ぼし、また、どうも自分に対して従属する姿勢を見せない上野(今の群馬県)の新田をたたく。実際、このあと新田は鎌倉時代を通じて冷やめしを食わされることになります。 自分と立場が変わることができる存在を滅ぼすか、屈服させるかして、全国の武士との間に主従制を設定していく。そうした事業を頼朝は行っていたのです。 武士は土地と官職を欲するそのときにごほうびになるものは、先に述べたように土地です。なんと言っても武士にとって土地が最高のごほうび。 というのは、土地は不動産というぐらいで、品物や物品のような動産ではないわけです。動産は、いつかは必ず壊れて、失われる。ところが不動産は手当てさえきちんと行えば、ずっと実りを約束してくれる永遠の財産。だから土地は最高のほうびになる。 ところが実はもうひとつ、土地と並ぶぐらい武士にとっては欲しいものがあった。それが官職です。
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