松竹創業120年 歌舞伎に生涯を捧げた、創業者兄弟の情熱的な人生
今年は「戦後70年」の年として話題になっていますが、映画と歌舞伎などで知られ、「演劇王国」とも称される松竹の創業120年の年でもあります。その記念すべき年に、歌舞伎では、出会い時から深い絆で結ばれ松竹が今こうしてある由縁でもある鴈治郎の名跡が復活(四代目襲名)。4月に東京・歌舞伎座で襲名披露が行われます。 歌舞伎の歴史でもある松竹。「歌舞伎の守護者」と言われる創業者兄弟はどのように松竹を興し、歌舞伎を継承してきたのか。その情熱的であり、忍耐と辛抱の、そして起伏に富んだ人生を振り返ってみます。
歌舞伎の舞台を見た感動が、芝居の世界へのスタート
松竹(しょうちく)は、もともと松竹(まつたけ)と呼ばれていました。それは明治10年12月13日に生まれた、松次郎と竹次郎という大谷家の双生児の兄弟の名前に由来します。後に次男の竹次郎が大谷家を相続し、長男の松次郎は白井家の養子となりました。 “一売店の小倅”であった兄弟の、演劇のプロデューサーとしての人生は京都から始まり、大阪、そして全国の劇場を二人は制覇するようになります。 兄弟は不平も言わず、ひたすら働く少年でした。9歳の時に、父の大谷栄吉が開場した祇園座という劇場の売店を引き受け、手伝うことになります。兄弟が13歳の時、祇園館と改称されたその劇場で、歌舞伎の大芝居が興行されました。大谷竹次郎は「芝居というものに、私が一生を捧げて悔いない気持ちになったのは……祇園館の(東京の市川)團十郎、(大阪の中村)鴈治郎の舞台を見てからだとはっきり申せます」と、その東西の二代名優の合同舞台を見たときの感動と決意を述べています。 父は新京極にある阪井座の金主(出資者)の一人となり、大谷竹次郎は父の代理として、木戸に座るようになりました。これをもって松竹は同年を創業の年としています。19歳にして大谷竹次郎は若い、熱心な仕打ち(興行者)として知られ始め、白井松次郎も京極座の代理人となり、夷谷座を引き受けます。また大谷竹次郎は祇園館を買収、阪井座跡に移転して歌舞伎座と改称します。 明治36年、大谷は憧れの名優、初代鴈治郎に四条通り(三条の橋の上との説もあるようです)で偶然に出会い、鴈治郎から、南座の経営がうまくいかず、恒例の顔見せができない状況であり、「なんとかして、役者の顔の立つようにしてほしいのです」と相談を持ちかけられました。そこで兄弟は、12月から5日間、鴈治郎一座を迎えて歌舞伎座を開場したところ、大入りとなり、鴈治郎は大喜びで大阪に帰って行ったのでした。 歌舞伎座で兄弟が、稽古の時に役者に意見を言い、楽屋では大道具直しに自分から出かけて行き、舞台では下座のあかりが漏れたらすぐ消せと飛んでくる姿などを見て、鴈治郎は二人ほど芝居が好きで、舞台を大切にする仕打ちはいないと実感し、「あんた方は、京都だけにおく人やない。わてと一緒に大阪へ行き、大阪の芝居をやりなはれ」と言ってくれました。以来、兄弟と鴈治郎の交友は真心で結ばれ、大阪進出につながっていったのです。 兄弟は興行界のゴロツキを退治するなど、さまざまな妨害や困難を切り抜け、25歳にして京都に5つの劇場を経営する身となり、34歳のときには東京、大阪、京都の12の劇場が傘下にあるほどでした。二人は因襲がつきまとっていた前近代的な興行の世界を革新し、演劇の世界を向上発展させ、現代へと導く大きな役割を果たしたのです。