松竹創業120年 歌舞伎に生涯を捧げた、創業者兄弟の情熱的な人生
歌舞伎の海外公演
昭和3年7月、初の歌舞伎の海外公演を実現しました。二代目市川左団次をはじめとする20名の俳優等が、モスクワ、レニングラードで「修善寺物語」「鷺娘」「鳥辺山心中」「忠臣蔵」「娘道成寺」などを上演し大きな反響を呼び、カブキはヨーロッパの流行語となりました。この海外公演の費用は、大谷個人の財産(当時の80万円)が充てられました。左団次は「松竹社長大谷竹次郎氏の多大の経済的犠牲によって、この企ては可能になった」と語っています。歌舞伎の海外進出第一号が、この壮挙だったのです。
病弱の名優との熱い友情
名優と謳われた五代目中村歌右衛門は技芸が秀抜で、人格も高潔な人物として知られていました。しかし病弱で、昭和5年くらいから舞台で衰弱が目立つようになりました。手足の自由がまったく利かない老優を大谷は、いかに美しく品格を持って舞台に登場させ、大舞台を圧させるか、さまざまに知恵を絞りました。そして淀君役などで、座ったまま、あるいは乗り物に乗っていくだけ、あるいは口上だけで歌右衛門を登場させました。大谷は「口上だけに出たとて、歌右衛門はやっぱり日本一の役者だ」と述べていたものです。大谷はそのように、芸道に生涯を捧げた歌右衛門に熱い友情を示したのでした。
歌舞伎座の三度の再建
芸術の殿堂、そして東京の名所である歌舞伎座は大正10年10月、漏電で炎上し消失しました。大正12年5月に再建の上棟式をあげ、工事が進んでいたところ、9月1日の関東大震災で、この歌舞伎座をはじめとする東京の松竹所有の劇場は烏有に帰します。 悲劇にめげず、大正14年に大谷は「血と涙」(本人の言葉)を絞って、破風造りの大建築の歌舞伎座を再建します。ところが昭和20年には、空襲のためこの歌舞伎座も灰燼に帰します。しかし大谷は戦後の、歌舞伎衰退の風潮と経済的困難の中で畢生の努力を尽くし、昭和26年についに再建することができたのでした。 長年、観光日本の表徴とも言われたこの歌舞伎座は、平成22年に老朽化のために取り壊されましたが、平成25年に歌舞伎座タワーも併設されて従来の和風桃山様式を残す形で建て替えられ、若い人や外国人などからも人気を集めています。 このように二人は、関東大震災、第二次世界大戦をはさむ激動の時代に、松竹の経営者として、歌舞伎だけでなく新派、新喜劇、時代劇、現代劇、翻訳劇、ミュージカル劇の分野を育成し、守護し、その生涯を送ったのです。白井松次郎は昭和26年に死去、享年75歳。大谷竹次郎は昭和44年に死去、享年92歳でした。 (文責・武蔵インターナショナル) 主な参考文献 「大谷竹次郎」(田中純一郎著、時事通信社)、「大谷竹次郎演劇六十年」(城戸四郎、脇谷光伸共著、大日本雄弁会講談社)、「私の履歴書2」(日本経済新聞社)、「松竹兄弟物語」(村松梢風著、毎日新聞社)、「松竹七十年史」(松竹)「松竹百年史」(松竹)、「松竹百十年史」(松竹)、「歌舞伎座百年史」(松竹、歌舞伎座)