松竹創業120年 歌舞伎に生涯を捧げた、創業者兄弟の情熱的な人生
非難や中傷に耐え、東京歌舞伎座の経営者に
兄弟は明治22年に東京の木挽町に建設された、日本一の演劇の殿堂である東京歌舞伎座を大正4年正月より経営し、以来、歌舞伎の興隆のために奮闘してきました。しかし、兄弟は恥辱と粘りと辛抱を経て、この歌舞伎座の経営者となったのです。 明治44年、白井は、仕打ちとして当時東京の芝居興行界のボス的存在だった田村成義より恥辱を受けます。しかし経営難だった東京歌舞伎座の重役より、大谷に対して株式譲渡の交渉があり、大谷は手金を渡して契約が成立。ところが田村が反対をしたため解消。世論も「上方者の松竹が、東京の名物の歌舞伎座を乗っ取る」と非難轟々の有様でした。大谷が中傷に耐え忍んでいるうちに、歌舞伎座重役の仲介で田村が和解し、大正2年に田村が歌舞伎座から退陣し、大谷が興行を一任されることになったのでした。
前代未聞の野外劇を行う
大正11年10月に、二人は日本の演劇史上初の大野外劇を京都の知恩院境内で催しました。平生、芝居を観ることのできない人たちにできるだけ安く芝居を見せたい、という社会奉仕の事業として企画されたものでした。京都は出雲阿国以来の歌舞伎発祥の地です。出し物は郷土史劇「織田信長」で、信長は二代目市川左団次が演じ、小山内薫、土方与志が指揮しました。この前代未聞の野外劇は全京都市の官民を挙げてのお祭り騒ぎとなり、10数万人という多くの人が集まり観覧者が溢れ、終了間際で中止のやむなきに至りました。
歌舞伎の新しい脚本を生み出す
大谷は、演劇革新の情熱を持っていた二代目市川左団次を新しい立派なスターに仕上げるためには新しい脚本が必要であると考え、岡本綺堂のところには必ず自分から出向いて、毎月のように左団次のための脚本を書いてもらいました。そうした努力のおかげで生まれたのが「修善寺物語」「鳥辺山心中」などの名作でした。また真山青果に「元禄忠臣蔵」の大作などを依頼したのも大谷でした。大谷はこの二人の作者を信頼し、敬慕し、力を合わせて多くの傑作が生まれたのでした。