追悼。“熊殺し”空手家ウィリー・ウィリアムス伝説の真実
“熊殺し”と呼ばれアントニオ猪木氏と異種格闘技戦を戦い、数々の伝説を作った元極真空手のウィリー・ウィリアムス氏が死去したニュースが飛び込んできた。複数の海外メディアが報じ、関係者が11日までに明らかにしたもの。心臓病を患い、67歳だった。 ウィリー氏の名が世に出たのは人気劇画作家で自らも極真空手の黒帯だった梶原一騎氏が仕掛けた1976年公開の映画「地上最強のカラテPART2」で、300キロを超える巨大な熊と、前代未聞の組み手を行ったこと。 極真空手の創始者で“ゴッドハンド”と呼ばれた大山倍達氏は、牛を倒して“牛殺し”で名を馳せたが、ウィリー氏は“熊殺し”の異名で呼ばれるようになった。1979年には第2回のオープントーナメント全世界空手道選手権で3位に入賞した。極真のオープントーナメント全日本空手道選手権の初代優勝者で、引退後、ジャーナリストに転身した山崎照朝氏(71)は1975年に開かれた第1回の“極真世界大会”の前に米国ニューヨーク支部に大山茂師範を取材に訪れ、そこで弟子として稽古していたウィリー氏の凄さを目の当たりしている。 「これは日本人は誰も勝てないなと思ったね。ヘビー級の体格(196センチ、100キロ)があるのにボディバランスがいい。道場の組み手では正拳突きでバッタバッタと相手が吹き飛ばされていた。当時、大山茂師範は、外国人選手に独特の突きを教えていてね。スピードはないのでマイク・タイソンのような破壊力とはまた違う威力なんだが、そのパワーとプレッシャーは凄かった。性格もいい奴で男前だったけど、日本から全日本チャンピオンが来たと聞いて道着に着替えて私との組み手を待っていた。真剣勝負になると髪の毛をドレッドに編み込むんだ。もう私は引退していたし、周囲も私に恥をかかせてはいけないと止めてやらせなかったんだけど(笑)。彼はやりたがっていた。今から思えばやってもよかった。技は互角だったろうが、あのパワーに太刀打ちはできなかっただろうけどね」 山崎氏が脅威に感じたのはパワーと非凡なボディバランスだ。 「大山倍達氏は、600キロ近い牛を倒した。そしてウィリーは300キロを超える熊。噂に聞くところによると、映画のための企画で熊はサーカス用。人に飼いならされ、危険な爪や牙はなかったらしいが、立ち上がって遥かに見上げるような熊(2メートル45センチ)に覆いかぶさられても倒れずに支えて、突きを出しているんだから。これは誰にも真似はできないよ」 ウィリー氏は、その後、極真会館を破門される形で“プロ”に転向。1980年2月に1万人を超えるファンでパンパンになった蔵前国技館でプロレスラーのアントニオ猪木氏と異種格闘技戦で対戦した。 「彼はアメリカではバスの運転手をしていて、私がニューヨークに1週間滞在したときも仕事があるから毎日、稽古にきているわけではなかった。空手では食えなかった時代だから極真を離れてビジネスと割り切ってプロのリングへ飛び込んだんだろう」 山崎氏はこの異種格闘技戦の取材現場に足を運んだ。 ウィリ―氏の師匠の大山茂師範も来日。セコンドを大勢の極真勢が固め、一方、新日本プロレスも藤波辰巳や長州力らの若手が陣取って、極真空手vs新日本プロレスの互いの威信と看板をかけた殺伐とした空気が流れていたという。