追悼。“熊殺し”空手家ウィリー・ウィリアムス伝説の真実
ウィリー氏は下だけ空手の道着を着用して上半身は裸。真っ赤なボクシング用のグローブをつけてリングに立った。試合は、ウィリー氏の蹴りや突きを猪木氏が避けながら進み、2ラウンドに両者は揉み合ってリング下に転落。一度は、場外リングアウトの裁定が下された。そのとき場外ではウィリー氏が馬乗りになって猪木氏にパンチや肘を浴びせていた。猪木氏は額を割られて流血。後に猪木氏は「周りのセコンドに蹴られたと思う」と証言している。 山崎氏は、「最強を求めていた実戦空手の極真では、必ず上になれ、という教えが基本にあった。ウィリーは、それを忠実に行ったんだろう」と言う。 20年以上も後になって総合格闘技で「マウントポジション」と呼ばれる基本技術をウィリー氏は実戦していたのだ。 立ち合い人の梶原一騎氏が、試合続行を宣言して、3ラウンドから試合が再開することになったが、印象的だったのは、猪木氏が投げを打ってプロレスラーの領域であるグラウンドの攻防に持ち込み、腕を取ろうとした瞬間、寝た状態のウィリー氏が下から蹴りを浴びせた場面。腕逆十字を狙った猪木氏は、寝た状態からウィリー氏にキックを出されて決めきれず、また場外に両者は転落。レフェリーの制止を無視して、猪木氏が逆十字固めの腕をほどかず、4ラウンド1分24秒、強烈な膝蹴りで脇腹を痛めた猪木氏と、右腕の肘を痛めたウィリー氏にドクターから試合続行不可能の判断が下り痛み分けとなった。今から39年も前の試合だが、技術が格段に進歩している現在の総合格闘技の原点のような戦いをしていたのである。 「当時の極真は国士館の柔道部と交流を持つなどグラウンドでの攻防、寝技も稽古に取り入れていた。ウィリーが寝た状態から蹴ったことにも、そういうバックボーンがあった」と山崎氏は言う。 この試合が果たして真剣勝負だったのか、エンターテイメントだったのかは、ずいぶん後になって様々な噂や情報が虚実飛び交うことになった。しかし、この試合にはファンが求める緊迫感溢れる“格闘ロマン”があった。当時、極真空手の強さは存分にアピールされ、モハメッド・アリ戦から異種格闘技路線を戦ってきた猪木氏もストロングスタイル“世界最強”の威厳を保った。 格闘家として価値の高まったウィリー氏は、大山茂師範と共に「USA大山空手」を創設、その後も再びプロのリングに立ち、1991年には「USA大山空手VS正道会館5対5マッチ」で佐竹雅昭と対戦して判定負けをし、1992年には総合格闘技「リングス」に呼ばれて前田日明とも対戦して敗れた。 1997年1月には東京ドームで行われた猪木氏の“引退カウントダウンロード”の一戦の相手として来日。コブラツイストかKOかでしか決着を許さないプロレス的な特別ルールで再戦している。 筆者は、このときリングサイドで取材させてもらったが、当時、ウィリー氏は、もう45歳だったが、キックの威力に衰えはなく危険だったのだろう。ウィリー氏は蹴りにいく寸前に猪木氏にアイコンタクトでタイミングを知らせていたことを鮮明に覚えている。 山崎氏は、「ウィリーの選手としてのピークは猪木さんとの試合の頃だったのだろう。極真空手の認知度をウィリーが異種格闘技戦をもって世の中に広げた功績に疑いはない。その後、アンディ・フグやフランシスコ・フィリョらプロとして名を馳せた選手が出てきたが、ウィリ―が、その原点であり最強だったと思う。大山茂師範も3年前に亡くなった。そしてウィリーも……。ひとつの時代が幕を下ろした思いがする。ご冥福をお祈りしたい」と両手を合わせた。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)