鹿児島県・与論島一周約20kmの島だ。奄美群島の内では最も沖縄県に近い位置にあり、琉球文化と奄美・大和の文化が混在している。言葉、食文化、住居は沖縄北部の影響が色濃い。
島の周囲は珊瑚礁で囲まれており、美しいサンゴ礁の島としても知られている。ハイビスカスやブーゲンビリアなどの熱帯の花が咲き、エメラルドグリーンの海では、カラフルな熱帯魚が泳ぐ。年間7万人を超える人々が観光に訪れる。
2021年12月。石垣だけが残る与論城跡から、島外より持ち込まれた可能性のある土の層が発見され、明代の陶磁器や硬貨が出土した。与論島は、東アジアとの貿易における中継地点として重要な役割を果たしていたのではないかと予想されている。
現在、島の人口は約5千人。農業と観光業が島の経済を支えている。島は「生活の場」であり、人口の14倍の観光客を受入れる「おもてなしの場」でもある。
コロナ禍での移動制限により観光客が減少している中、与論島ファンと口コミに支えられ、着実に販売数量を伸ばしている特産品がある。リピート率が高いのも信頼の証だ。島の自然と素材を磨き上げ、持てる技の全てを注いだ商品開発の裏側に迫った。
20年古酒からハイボール 与論島が育んだ黒糖焼酎「島有泉」 有村酒造
20年古酒を使った「与論島ハイボール」は、与論町の成人式で配布され好評。ふるさと納税のプレゼントキャンペーンの品としても採用された。「20年間、島の蔵で眠り続けた酒。コロナ禍で会食が制限される中、家庭でも楽しめるハイボール。お祝いの気持ちを缶に込めて送り出しました」と話す有村社長(右から2人目)。取材は感染対策に留意の上、2021年12月頭に行っている。
有村酒造は与論島唯一の酒蔵だ。創業は1945年。奄美群島のみに製造が許された黒糖焼酎を醸造している。代表的な銘柄は島有泉(しまゆうせん)。客人を歓迎する「与論献奉(けんぽう)」には欠かせない酒だ。冬~梅雨の仕込みの時期には、甘い香りが蔵に漂う。
コロナ禍では会食が制限され、外食産業は大きな打撃を受けた。比例して酒類の販売数量も伸び悩む。有村酒造も例外ではなかった。主人から客人に酒を献上し、口上を述べてから酒を飲み干す「与論献奉」もコロナ明けまでは自粛が求められ、更に打撃を受けた。
2020年、有村酒造は徳之島の飲料(ソフトドリンク)メーカーと共に奄美群島広域事務組合が公募した奄美群島民間チャレンジ支援事業に応募。奄美酒類(徳之島)、沖永良部酒造(沖永良部島)とタッグを組み、「黒糖焼酎ハイボール」の開発に乗り出した。2021年12月には「与論島ハイボール」として市販を開始。内容量は350ml。アルコール度数は7%。
島有泉20年古酒(アルコール度数40度)を使用した与論島ハイボール。有村社長は「入手可能な国内のハイボールを全て集め、開発の参考にしました。口当たりや飲みごたえ、香りを含め『飽きのこない』後味に仕上げました。自信作です」と胸を張る。
有村晃治工場長(59)は「『島有泉』の20年古酒(アルコール度数40度)を使用。古酒の芳醇な香りが特徴です。ハイボールをきっかけに、若年層や旅行客にも奄美黒糖焼酎の魅力を伝えたい」と期待を寄せる。
1次仕込みには、50年以上使用している甕(かめ)を使用。一つ一つ形状の異なる甕を手入れしている。蔵独自の「蔵付き酵母」が味を支える。仕込みには、カルシウムを多く含んだ珊瑚礁の島ならではの硬水を。割水には口当たりの良い軟水を使用している。
「ほとんどが顔見知りという小さな島で作られた黒糖焼酎の『島有泉』は、島人同士のコミュニケーションを深め、来島者の方々との絆を深めるお手伝いをして来ました。コロナ禍が終われば、16世紀から島に続く『与論献捧』も復活するでしょう。今こそ前を向いて、酒造りを続けたい。元気の源泉は、蔵にあり。伝統を守り、チャレンジを続け、時代の壁に立ち向かいます」有村泰和社長(58)は力を込めた。
有村酒造の酒蔵は、与論町の中心街、通称「銀座通り」にある。「私たちの酒は『おいしく』『楽しく』『元気が出る』与論島の黒糖焼酎。『与論島ハイボール』はふるさと納税のプレゼントキャンペーンにも採用され、好評を得ています」
ヨロンの塩、きび酢、名物「もずくそば」 蒼い珊瑚礁
与論島に移住して40年になる関口さん。自身が経営する空港近くのレストラン「蒼い珊瑚礁」では自家製麺の「もずくそば」が人気。
「湿度が高い与論島。乾麺を作るのは手間がかかります」そう笑顔で話すのは、栃木県生まれの関口房雄さん(84)だ。40年前、関西地区で自身が展開していた外食産業に見切りをつけ、単身与論島にやって来た。
「『いきなり移住』という訳ではなかった。移住前には3年程、関西との間を行ったり来たり。ビーチの前で海の家を期間限定で開店。移住して生活できるかどうか、確かめるため。結果は大成功。美しい海に囲まれて暮らせるならと決意を固めました」
地域の福祉にも寄与したいと障がい者雇用も積極的に行っている「蒼い珊瑚礁」。障がいを理解した健常者とのチームワークが光る。
「移住当初はラーメン屋を開店。島民からも観光客からも愛される店に成長したが、どうも満足しなかった。私は一つの事をやり遂げると、次の対象を見つけて掘り下げてみたくなる。始める前には慎重。しかし、始まると止まらない。次に興味を持ったのは『製塩』。与論島の透き通る海から、極上の塩を作ってみたくなったんだ」
海水を海から直接引いて炊きあげる塩工房。不純物を徹底的に取り除き、顧客の要望に合わせて粒の大きさを揃える。修学旅行で島を訪れる学生・生徒向けに製塩体験プログラムも提供している。
「塩は奥が深い。一切手を抜けない。徹底的に不純物を取り除き、輝く『白』に仕上げる。試行錯誤を繰り返し、低温でじっくり煮詰める平釜式に落ち着きました。用途によって粒の大きさも変える。卓上調味料用には粒子が細かいものを。外食産業やおにぎり、梅干しや漬け物用には粒子を荒く。顧客のリクエストや時代に合わせてブレンドした塩も展開。焼き塩にアオサを加えたものや、昆布や島唐辛子を加えたもの。肉料理用に島内産のローズマリーを加えたものも開発しました。コロナ禍でも受注が減ることはなかったのは有り難い限り」
ミネラル分が通常の穀物酢の約10倍、カルシウムが20倍、カリウムは100倍、鉄分は6倍もあり、赤ワインに含まれるポリフェノールも豊富なきび酢。タンクの中で熟成される。与論島の珊瑚を溶かし込んだ酢も開発。更に100倍のカルシウムを含有する。
「『きび酢』が与論も含めた『奄美の味』『島の味』の決め手だと聞いて、研究を始めました」と話す関口さん。「空気中にあるはずの酵母菌が与論島ではなかなか見つからず、お酢にならなかった。あきらめきれないまま実験を続けていたが、一向に結果が出ない。ところがある日、徳之島の友人からもらった糖蜜の蓋を閉め忘れ、酢を作る壺の脇に置いていたら酢が出来てしまった。全くの偶然。これには驚いた。壺の中でアルコール発酵が進み、酢酸菌も働いてきび酢が出来た。大切に育て、今日まで作り続けています」
塩分が少なく後味もまろやかなきび酢は、飲用としても人気が高い。調理用としての支持も多く、荷札が貼られ、出荷を待つ1.8L入りの業務用の瓶が積み上げられている。
「注文は、リピーターや愛用者からの紹介が多い。レストランで提供しているもずくには、きび酢で作った三杯酢を使っています。味が気に入り、お土産で求める方も多い。もずくそば、塩、きび酢。私の手から離れるまでは、真剣勝負の生産が続きます。手を離れたら、顧客の判断に委ねるしかない。だから、やれることは、全部やる。手抜きをせずに、とことんやるのです」
コロナ禍の中、新たに作った実験農園。「農園では私の白髪を染める『ヘナ』も栽培。販売する商品は、全て自分で試して確かめるのが信条」
「コロナ禍の中、新たに実験農園を作りました。栽培している島唐辛子やハーブ類で新商品を作りたい。しかし、本当の目的は違います。与論島にも、引きこもりの子どもや家庭のトラブルから登校拒否をしている子どももいる。私自身も産まれながらに脳に障がいがあり、今でも吃音症がたまに出てしまう。思ったことを言葉に出来ず、悩みを抱えながら生きてきた。だから、わかる。活躍出来るフィールドが与えられるだけで、人生は変わる。私も与論島に移り住んで40年。美しい自然と島人の優しさに気持ちがほぐれ、レストラン経営やもずくそば、製塩やきび酢作りに没頭することができた」
「今、少しずつだけれども島に恩返しが出来ています。出来ることは限られていますが、力になりたい。高齢で、若い頃のように身体は動かないけれど、気持ちだけは真っ直ぐでいたい。障がいがあっても、いい。産まれた家庭が恵まれなくてもいい。他人は、他人。自分は自分。太陽の下で作物と向き合い、仲間と加工品の生産に汗を流す。笑顔で作ったものならば、きっと美味しい。気持ちがお客さんにも伝わると嬉しいですね」
関口さんが畑の島唐辛子を一口かじる。歪んだ口元に笑顔が戻る。「辛いよね。色も良い。これときび酢で激辛ソースが出来るんだ。ピザにかけると最高!」笑顔と笑い声が与論島の青空に溶けていった。
徹底して「モリンガ」 栄養価の高い特産品を栽培・加工・販売 薬草パパイヤ農園
白尾ファミリーが経営する「プラザ サンコーラル」は1978年創業。与論島観光の移り変わりを見続けてきた。「70~80年代には、ご当地土産より名前をプリントするシャツやキーホルダーが良く売れた。東京からの定期船に乗って、大学生が大勢やってきた」
お土産店「プラザ サンコーラル」を経営しているのは、白尾みえこさん(71)。夫の元久さん(故人)と共に、前身となる「よろんサンゴセンター」を1978年7月に創業。「当時は大勢の大学生が島にやって来て、活気がありました。レンタサイクルやレンタカーも取り扱い、1年中休みが取れないほど忙しかった。併設した喫茶店も満席。島中が熱気を帯びていました」
沖縄ブームや円高により海外旅行が身近になったことから、与論島を訪れる観光客も分散が始まった。
「取り扱う土産品を見直しました。菓子類などの食品は好調なのですが『どこでも買える』ものには消費者は興味を示しません。『与論島だから』『サンコーラルだから』とこだわった商品の開発が急務でした」
「モリンガ」との出会いは偶然。10年前の同時期に、島内の診療所の医師とインド料理に精通した友人から栽培を勧められた。「モリンガ麺はパスタにも使える生麺タイプ。島内では複数の飲食店がつけ麺やペペロンチーノ、サラダなどに調理して提供しています」
白尾さんにモリンガの栽培を勧めたのは、パナウル診療所の古川誠二医師だった。「栄養価の高い植物がある。与論島の気候でも育つのではないか」。また、同時期に島内でライブハウスを経営するミュージシャンの田畑哲彦さんも「インド料理に使われている身体に良い植物がある」と声をかけた。聞いたことのない植物名に半信半疑だった白尾さん。「美味しくて、身体に良いものなら栽培する価値はある」と種を入手。パパイヤやウコン、グアバやキクイモなどを育てていた自家農園でモリンガの栽培を始めた。
「これは2年目のモリンガの木。路地とハウスで栽培しています。収穫したら、葉の色が変わらないうちにすぐに加工。時間との戦いです」
「モリンガの生命力には驚くばかり」と話すのは、自社農園でモリンガの栽培~加工を担当している白尾浩希さん(41)だ。動画サイトYouTubeで与論島の農業の魅力を発信している。アカウント名は「南国農業人」。モリンガ以外の作物の栽培や、ビニール張り、ドローンを使った管理まで内容は多岐にわたる。
「台風による塩害もあるのですが、モリンガは葉が枯れても10日ほどで新たな葉が生えてくる。生命力がありすぎて、放置しておくと10メートル以上に育ってしまう。小まめな剪定が欠かせません」
「モリンガの色彩を損なわず、風味を残す。モリンガクッキーは、数ヶ月の試作を重ねて完成した自信作です」
白尾さんが育てたモリンガを使ったクッキーを焼き上げているのは、島のベーカリー「ヒロ屋」。1979年に開業。島のパン食を支え続けている。定番の食パンは1斤買いをする姿が目立つ。メロンパンなどの菓子パンや、スパイシーなカレーパンに代表される総菜パンもファンが多い。ショーケースに並んだケーキは「島の特別な日」を鮮やかに彩る。
「クッキーは高温で短時間で焼き上げます。焼きすぎると焼き色がモリンガの色彩を抑えてしまうので慎重さが求められます。サイズや包装形態は白尾さんと練り上げました」
包装を開けると、モリンガの優しい香りが広がる。島のベーカリーが丁寧に焼き上げたクッキーは、技と与論島への愛情が込められた逸品だ。
2014年にオープンしたくじらカフェ。店内からの眺望も素晴らしく、島内在住者や観光客に人気の店。「島のハーブを使った料理やジャムが好評。島の旬を届けたい」
コロナ禍でも確実にファンの数を伸ばしているお店がある。ハキビナ海岸の隣にある「くじらカフェ」だ。純黒糖を使ったグラノーラは完売が続く。店で提供しているハーブ素材を使ったスパイス類も人気だ。
「グラノーラは、固まらなかった黒糖を島の農家から提供されたのが契機。ネット販売で売り切れると、島外に住む出身者のなかには『店にはあるはずだから』と、島内の親戚経由で店舗に求めに来られる方も。純黒糖はミネラルもたっぷり。牛乳にも良く合います。与論島は、ハーブ類が数多く自生しているので、研究も楽しい。包装は、若い世帯や高齢の単身世帯にも使いやすい分量を心掛けました」
「食品だけではありません。『NPO法人あんまー(お母さん)ず』のメンバーと一緒に寄付金付きのカレンダーの販売を始めました。与論島では出産する病院が無いために、沖縄本島で出産する場合が多く負担も大きいのです。お土産=モノの枠を超えて、島の問題解決の一助になればと思っています。昨年、『あんまーず』は内閣府『子どもと家族・若者応援団表彰』で内閣総理大臣表彰を受賞しました。これからも活動を通じて『与論愛』を伝えたい」店主の村上由季さん(41)は笑顔で語った。
島が育てた素材を大切に磨き上げ、身体と心に響く逸品を作り上げる。開封した時に流れるのは、与論島の風。
鹿児島県、最南端。与論島の魅力は、いつでも身体にやさしく、心にうれしい。いつでもあなたを待っている。