加計呂麻島民の生活を支えて40年
奄美群島の加計呂麻島(かけろまじま)は、奄美大島の南に位置する東西に細長い島。95%が山林。海岸が入り込んだリアス式の海岸沿いの30集落に1200人が住んでいる。真っ白な砂浜と青い海が輝く。南国に咲き乱れる花々と鮮やかな緑が目に染みる。
半農半漁の島。きび酢、黒砂糖、塩の製造も盛んだ。豊かな自然や、島に伝わる歴史や伝統行事に魅せられた観光客も多く、「加計呂麻ブルー」とも呼ばれる風景写真はSNSを通じて数多く発信されている。
島内に大規模な商店はない。島民は町営フェリーや海上タクシーと呼ばれている乗合船を使い、対岸の奄美大島・古仁屋(こにや)市街でまとめ買いをする。
町営フェリーの発着に合わせ、加計呂麻島内の全ての集落を繋いでいるバスがある。1980年から島内のバス輸送を担っている「加計呂麻バス」だ。高齢化率50%以上、人口減少著しい島の公共交通を担う姿を追った。
フェリー着岸から始まるバス運行 新聞配達・買い物代行・家畜の世話も
フェリーで奄美大島から運ばれた荷物は手際良く仕分けされる。食料から日用雑貨、医薬品や農業資材に至るまでの生活必需品が運ばれる。
加計呂麻バスは、島内唯一の公共交通機関。奄美大島(古仁屋港)を出航したフェリーが着岸するのは、加計呂麻島中心部の瀬相(せそう)港と東部の池間(いけんま)港。フェリーの着岸時刻に合わせ、港には目的地の集落名が掲げられたバスが並ぶ。
バス運転士が桟橋に近づき、船から投げられたロープを手際よく繋いだ。
下船した1台の軽トラックがバスの横に停まる。幌が開けられ、積み込まれた荷物が手際よく集落毎に振り分けられ、バスに積み込まれた。
加計呂麻バスが運ぶのは、人だけではないのだ。この日は井戸水の消毒に使う薬剤や、冷凍食品、肥料や鍬などの農業資材、ビールや米などが次々と積み込まれた。
瀬相港に午前7時25分着岸する1便には、その日の朝刊が積み込まれている。「もう、バス停で新聞を待っている人がいる」。200部の新聞は、1分足らずで仕分けを終えた。
バスに次々と乗客が乗り込む。高齢者が引く荷物を満載したキャリーバッグを運転士が軽々と運び込む。補助台を添え、乗車を介添えする。
「荷物を積み込むだけではないよ。重い荷物は、自宅まで一緒に持って行く。お年寄りに辛い思いはさせないよ」と運転士の沖忠弘さん(60)は笑顔で運転席に乗り込んだ。
車内にはインクの臭いのする刷りたての新聞。人を運び、荷物を運び、新聞も運ぶ。加計呂麻バスの運転士は、一人何役もの役目を手際良くこなす。
運転席から手製のポストに新聞を配達。配達を待っていた人から買い物を頼まれることも。
バスは海沿いのカーブを曲がり、峠を越える。集落の入り口でバスが止まった。運転席の窓が開き、新聞が投げ込まれる。
「バスから降りなくても配達出来るように、住民が運転席の高さにポストを設置してくれているのです。新聞が溜まっていたら、声かけをする。新聞を届けることは、ニュースを届ける以上の意味があるのだと思っています」。
同乗した配達員が手際良く車内でチラシを折り込む。集落の高齢者の健康確認も配達員の大切な役目。
「集落内の路線に面していない家には、同乗した配達員の方が配ります。天候が悪い時には、道路沿いのポストではなく、玄関まで配達します。お年寄りが新聞のために雨に濡れては本末転倒。配達と同時に日用品の買い物を頼まれることもあります。終点の売店で買って、帰り便で渡す。留守中の家畜の世話や、通帳と印鑑を預かって、郵便局で預金を下ろしに行った時代もありました」。
下車する乗客から差し入れが手渡された。栄養ドリンクと畑で取れたばかりのキャベツ。
「嬉しいですよね。温かい気持ちが湧き上がるのですが、どうも上手に言葉に出来ない。「ありがとう」と言うのが精一杯です」。
きれいな海はどこですか 加計呂麻島全部です
加計呂麻バスでは、車両整備も運転士自らが行う。山道や海岸沿いの道はカーブも多く、新品のタイヤも2ヶ月で交換。
7年前に大阪からIターンした運転士の松浦史郎さん(36)は、島にルーツを持つ加計呂麻2世だ。
「コロナ禍で観光客は激減してしまったけれど、四季を通じて温暖な加計呂麻島。年間のべ4万人以上の乗客が利用しています。ツアーの皆さんを、臨時の貸し切り便で案内しました。手つかずの砂浜、透き通る海。琉球との交流があった島の歴史や、戦跡を巡る方も多い。「男はつらいよ」のロケ地を周遊される方も。一番困ったのは、「きれいな海はどこですか?」の質問。島の海岸は全て美しい。透明度も高く、魚影も濃い。海に入ることを希望される方には、泳力に応じたスポットを案内しています。ライフジャケット持参の有無でも案内する海岸を変えています」。
加計呂麻島の海岸線は147.5キロ。美しいリアス式海岸と、300メートル級の山々を抜けてバスは進む。
「現在は舗装されている島の道ですが、雨の日にはタイヤチェーンをつけて走らなければならないほど道路事情も悪かった」と話すのは、運転士の元永孝則さん(62)さん。
「マイカーを運転していた島民も、高齢を理由に免許を返納する人も多い。近年レンタカーで島内のドライブを楽しむ方が増えて来た。「島を楽しんでね」という気持ちも、スピード超過の乱暴な運転を見て残念な気持ちになることもある。舗装は進んでいても、狭い急カーブが続く島の道。カーブミラーが整備されていない場所もある。どうか、スピードを落としてゆっくりと走って欲しい」。
バス運転士は船長さん?機関士さん? 海上輸送からバス輸送
開業時の車庫。長女の里佐さんに手を添える林会長。
「バスが開通するまで、島内交通は海上輸送。個人が運行する小型定期船が担っていた。海岸線の集落を巡り、対岸の市街地である古仁屋まで行く。荷物を担いでの山越えは困難。船だけが頼りだった」。加計呂麻バスの林範孝会長(73)は、当時を振り返る。
「1955年には8500人を超えていた人口も、バスが開業した1980年には2700人に減ってしまっていた。盛んだった鰹漁や真珠の養殖にも陰りが出ていた」
1978年、加計呂麻島を抱える瀬戸内町が町営の「フェリーかけろま」を整備。古仁屋(こにや)港と加計呂麻島の瀬相(せそう)港が結ばれた。小型定期船に比べ、安定した輸送能力が海峡を結んだものの、島内交通は依然として小型定期船に頼ったまま。陸上で集落を結ぶバス路線の開通は、島民の悲願だった。
1980年8月、奄美市に本社を置いていたバス会社が加計呂麻営業所を開設。林さんは家族と共に居を移し、初代営業所長としての奮闘が始まった。
待望のバス運行を伝えた1980年8月21日付けの南海日日新聞
「当時、長女が3歳。長男は2歳。幼稚園も無い島での子育てには不安もあったが、何より使命感に燃えていた。加計呂麻島は私の父の出身地であり、妻の母の出身地。バスが島のために出来ること、私が島のために出来ることを考え抜いた。定期的に全集落の住民と会合を持ち、悩みや課題を共有。答えを求めて、町議に立候補。当選後もバスのハンドルを握りながら、町政のみならず、県や国に「離島の離島」の現状を粘り強く訴え続けた」。
「30年前の夜、バスの営業所に腹痛を訴える女性の家族からの電話が鳴った。夜にフェリーは動いていない。波は荒く、海上タクシーも出航をためらった。バスを動かし、港からは私の小さな船に乗せて海峡を渡った。対岸の古仁屋に着いたのは深夜。何とか病院には運びこんだものの、医者が酒に酔っていて診察にならない。冷たい言葉で突き放されたが、看護士が「この方、妊娠しているのでは?」と勘づいた。今度は産婆さんを探し、暗闇の街を走りまわったが、すでに手遅れ。残念な結果に唇を噛みしめながら、女性と共に加計呂麻島に戻ったことを覚えている」。
信念で乗り越えた三度の倒産
25人乗りの中型5台からスタートした加計呂麻島のバス運行。 本社前に建造物はなく、車庫から港が見渡せた。
事業開始から3年後の1983年に親会社が倒産。加計呂麻島のバス運行に暗雲が垂れ込めた。島民の悲願であり、ライフラインとして定着したバス運行。林さんと運転士は諦めて逃げ出す訳にはいかなかった。
「廃止路線代替バスとして運行を再開させたものの、赤字は止まらない。その後、二度の倒産を経験。2002年、社員(運転士)からの出資を募って再出発。何とかバス路線を維持し、現在に至っている。全車の売り上げ合計が、1日に1万円に満たない日もある。行政からの補助が命綱」なのだと現状を噛み締める。
「タイヤ交換も含めてバスの整備は全て運転士が行う。徹底した経費削減は創業時から。1円でも無駄にせず、1日でも長くバスを運行する」
2002年の再出発時には、加計呂麻島に面した請島(うけじま)と与路島(よろじま)の集落含めた全33集落から感謝状が贈られた。
請島、与路島も含めた全33集落から贈られた感謝状には「地域住民の生活路線を無事故で一貫して住民本位のサービスを心掛け、地域の振興発展に寄与した」と墨書されている。
「バスは一人じゃ走れない。経営者意識で会社を支え続けた全ての運転士、寄付を寄せてくださった方々、バスを愛する島民、島を愛する観光客の皆さんに感謝の気持ちで一杯です」。
さあ、明日も頑張りましょう
バスの運転と事務作業をこなす長女の里佐さんと林会長。乗客から寄せられた手紙には感謝の言葉が。
長女の福田里佐さん(45)も加計呂麻バスの力になろうと2004年に大型2種免許を取得。鹿児島県初となる女性運転士の誕生は、数多くのマスコミで報道された。
「子育てが一段落したことが免許取得の契機になりました。子どもの頃から身近にあったバス。遊び場でもあり、父とのコミュニケーションの場。しかし、自らがハンドルを握った瞬間には「乗客の命を預かっているのは私」「運行開始から無事故の歴史を継続しなくては」と気持ちが引き締まりました」と当時を振り返る。
県内初の女性運転士誕生を報じる2005年4月4日付けの南海日日新聞
現在は、バス乗務から退いた林会長だが、港に着いた荷物の仕分けでは先頭に立ち、率先して荷分け・積み込み作業を手伝う。
地域密着。一人何役もこなす加計呂麻バスの運転士。島民の思いを乗せ、今日も島を走る。
「40年前、バス運行の夢を抱え、私と共に加計呂麻島へと海を渡ってくれた妻。そして2人の子ども達。長男の健二(44)は、加計呂麻バスの社長として経営を束ねている。長女の里佐はハンドルを握りながら、運転士が気持ちよく業務に向かえるように心を砕いている。家族には感謝の思いを伝えられないまま、時間だけが過ぎてしまった。今なら言える。家族に「ありがとう」と心から伝えたい。妻には心から伝えたい。本当にありがとう」。
妻の林秀子さん(69)が急須の茶を湯飲みに注ぐ。「さあ、明日も頑張りましょう」。口元が緩んだ秀子さんの横顔を、夕陽が赤く照らした。
加計呂麻バス。社員10人、バス8台。6路線8系統の路線を走る。海沿いのカーブをしなやかに曲がり、山の坂道ではアクセルを踏み抜く。
島でバスを見かけたら、手を上げて止めて欲しい。潮風で錆びた車体を、同色のガムテープで補修しているバスだ。
扉の先には、運転席の笑顔。車窓に流れるのは、加計呂麻島の風景。バスは走る。加計呂麻バスは走る。走り続ける。