Inside2014.12.22

「ヤフーは東京の地方紙か」――“中の人”が語り継ぐ3.11の反省と経験

東日本大震災から3年9カ月がたちました。あのとき“ヤフーの中の人”はどう動いたのか、何を迷い、悩んだのか――。当時の経験や反省を引き継ぐための社内セミナーが12月8日、開かれました。

セミナーには弊社社長の宮坂学、副社長の川邊健太郎(写真左)をはじめ、約200人の社員が参加し、ライブ中継を通じて800人以上の社員が視聴しました。前半はNHK報道局 災害・気象センター長 辻村和人氏(写真右)にお越しいただき、災害報道の意思決定プロセスや判断基準について講演していただきました。またテレビとネットの両面から災害対策の未来を考えるトークセッションも開催しました。

後半のセッションでは「Yahoo!ニュース」「Yahoo!検索」など各サービスの現旧担当者が当時を振り返りました。その内容を本ブログでご紹介します。

後半のトークセッションに登壇したメンバー

登壇者は(左から)当時から「Yahoo!ニュース」を担当している片岡裕、有吉健郎、伊藤儀雄、「THE PAGE」の奥村倫弘(当時「Yahoo!ニュース」)、「Yahoo!ニュース」の河野清宣(当時「震災タスクフォースプロジェクト」)、「Yahoo!検索」の吉田享晴、「Yahoo! JAPAN」スタートページ担当の野崎勇治、当時「震災タスクフォースプロジェクト」の高田正行、宮内俊樹。また北九州オフィスより映像で参加した奈須川信幸(当時から「Yahoo!ニュース」担当)です。

壁を乗り越えるのは「使命感」

3.11で直面した壁を振り返る

奈須川(Yahoo!ニュース編集) 昼の食事が終わったころに地震が来ました。2日前にも前兆の地震があったので、皆素早く対応しようと意識は高かった。ただ手が震えるような状況のなか更新していたので「どう平静を保つか」が最初に感じた壁でした。

地震直後、東京オフィスでは避難指示が出たため、全員が仕事を一時ストップし、近くの公園に避難した(2011年3月11日撮影)

奈須川 警備員にビルの安全を確認し、オフィスに戻れるよう交渉して、ビルの17階まで走って戻りました。息切れがしてすぐにマウスが動かせなかったです。

伊藤(Yahoo!ニュース編集) 公園ではどこに誰がいるのか分からない状況。とにかく仕事を再開するため、会社から近い自宅に行くことにしました。ただ自宅の私物PCではYahoo!ニュースを更新できないため、公園で大声を出してエンジニアを探し出し、一緒に走って家まで来てもらい、PCを設定しました。

人でごった返し、どこに誰がいるのかわかりにくい状況だった(2011年3月11日撮影)

奥村(当時Yahoo!ニュース編集) Yahoo!ニュースは米同時多発テロの前後から災害マニュアルを作り、準備を進めてきました。しかしあのとき、準備してきたことが全てとは言いませんが、動かなかったのです。

無線回線が輻輳(ふくそう)して使えなかったり、非常用PCを持った人が電車に閉じ込められて更新できなかったりと、想像しなかったことが次々に起こりました。それを乗り越えられたのは、それぞれが自分の判断で動けたから。ルールではなく使命感が大きかったのではないかと思います。

宮内(当時震災タスクフォース、募金サービスも担当) 地震が起こったとき外にいたのですが、歩いて会社に戻り、どこよりも早く義援金を送れるようにと1時間くらいでページを完成させました。本来は義援金を送る先が決まっていないとページを公開できないのですが、備えだけはスピードを持ってやろうと。その後、地震の第一報が落ち着いたタイミングを見計ってリリースしました。

一線を越えたとき

普段のルールを破って「一線を越える判断や行動」が求められたケースもありました。

片岡(Yahoo!ニュース。報道各社との連携を担当) 被災地からの情報が求められているなかで、宮城の河北新報は地震の影響で自社サイトの更新やメールのやり取りが難しい状況となり、Yahoo!ニュースへも記事を配信できなくなりました。そこでNSなどを通じて原稿を受け取り、こちらでYahoo!ニュースへ代理入稿していました。

また、当時はYahoo!ニュースと契約していなかった朝日新聞からヤフーに連絡があって、Yahoo!ニュース トピックスでピックアップさせていただいたり、NHKのテレビ映像をYahoo! JAPAN上でサイマル放送したりといったことが実現しました。多くは現場の判断で進んでいきました。

一線を越える判断や行動はなぜできたのか

高田(当時震災タスクフォース) 私はニュースや検索といった既存サービスでは拾いきれない部分を解決するために動きました。一番大きかったのは電力に関する情報です。東京電力とやり取りして、計画停電の情報を地図に表示したり、電力予報メーターを作ってYahoo! JAPANのトップページに出したりしました。それまでYahoo!になかったコンテンツを作って出すという意味で、一線を越える挑戦でした。

野崎(スタートページ担当) 普段はYahoo! JAPANのトップページから外部サービスに直接飛ばしたりしませんが、あのときはGoogleマップの避難地図にリンクを張ったりました。すべて現場の判断です。「Yahoo!のトップページである前にインターネットのトップページでなければいけない」と。Yahoo! JAPANの中に情報がなければ外に誘導するのは普通のことです。

河野(当時震災タスクフォース) 私は当時エンタメ関連のサービスを担当していたのですが、地震後はその仕事を離れ震災タスクフォースチームに参加しました。毎日現場で意思決定をするので、ディレクションの能力や自分自身をコントロールする力が求められました。

被災地からの検索数が激減

被害が大きく、情報も不完全……そのような状況下では「想像力」も必要な力の1つではないでしょうか。検索チームは検索クエリからユーザーが求める情報を想像し、サービスに生かそうとしました。 

吉田(Yahoo!検索) 検索クエリは人が実際に何を欲しているかを知る一番のアンテナです。それらのデータを9.11のときは即時に取り出せなかったのですが、3.11のときは可能だったので、1時間おきに社内に共有しました。データの分析はしなくていいからとにかく出せと。

実際には被災地からの検索数が激減しまして、被災地で何が求められているかは見えない状態でした。なので想像力を働かせる必要はかなりありました。例えば、地震後の週明けの月曜日には、学校があるかどうか気になって調べる人が多いだろうから準備をしておこうとか、そんな風に先回りしていました。

非常時こそ「想像力」

高田 「Yahoo! JAPANが何らかの二次被害を巻き起こしてはならない」ということで、アクセスが集中しそうな公共性が高いサイト(東京電力や自治体など)のミラーページを制作した部隊もいました。

「ヤフーは東京の地方紙か」の声

震災後、Yahoo! JAPANのサービスに対しユーザーの皆様からさまざまなご意見が届きました。

会場には当時の新聞や雑誌も

宮内 地震から1カ月くらいたって、NPOの方とお話していたときに「震災の状況が全然伝わっていない。ヤフーは情報をつなぐのが仕事でしょう?」と言われたのがすごくショックでした。情報をつなげるのが僕らの仕事だし、情報の先にどういう人がいるか想像力を働かせたり、現場に行くことが大切だと思いました。

奥村 しばらくたって「ヤフーは東京の地方紙か」と言われました。実際に一番辛い思いをしているのは被災地なのに、Yahoo!のトップページで初期に手厚く扱ったのは計画停電の情報だったわけです。被災地の声を届けることなく最初にそれをやったので、届くべきところに届かなかったという意味で手痛い指摘をいただきました。

伊藤 「東京の地方紙」という指摘は災害以外でも常に課題ではあります。震災のときも、週明け3月14日の朝刊1面が「津波被害」「原発」「計画停電」と各紙判断が分かれました。何を重視するか、何をトップに持ってくるのか非常に悩ましいところではありますが、よくクリックされたのは「計画停電」でした。被災者に寄り添えていたかということは課題が残りますし、次に広域的な災害が起きたときに、地域の細かい情報をどうやってその人に届けるかというのも大きな課題です。

地震直後は「都内で塀が倒れた」とか「天井が崩れた」といった情報がまず先に来ていて、災害の規模も現地の状況がわかりにくい状況でした。また、震災報道をめぐっては、頻繁に報じられる被災地とそうでない被災地の「格差」についても指摘されました。すべてを網羅することはとても難しいことだと思いますが、Yahoo!ニュースでも、被害の状況や支援の必要性を迅速に、立体的に伝えるためにもっと努力する必要があると痛感しました。

ヤフーでは今も震災に関連する情報の発信や支援活動など、さまざまな取り組みを進めています。Yahoo!ニュースでは地方紙との提携を増やし情報源を拡充(※ニュース提供社一覧)しています。また災害時の更新に備え、今年4月に3カ所目となる編集拠点を北九州に開設しました。会社全体としては、8月に社員200人が参加する大規模防災訓練を実施。9月には被災地を自転車で走る復興支援イベント「ツール・ド・東北2014」を開催したほか、東北発の商品を販売する「復興デパートメント」や募金への呼びかけも続けています。

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