Inside2015.02.18

被災した家族の無事を祈りながらサーバをかき集めた~Yahoo!ニュースのエンジニアが、石巻で「何でも屋」になった理由

 東日本大震災から3月11日で4年。昨年末のセミナーレポートでもお伝えした通り、震災はYahoo!ニュースにも大きな教訓を残しました。
 当時、スタッフの中には被災地出身のメンバーもいました。故郷が津波に飲み込まれる中で、「中の人」は何を思い、変わったのか――。震災をきっかけに、東京から故郷・宮城県石巻市に拠点を移した元Yahoo!ニュースのエンジニア・石森洋史に振り返ってもらいました。

Yahoo!ニュースを更新しながら、テレビの前で泣いていた

大勢の避難者でごった返す、ヤフー東京オフィス近くの公園(2011年3月11日撮影)

――地震発生直後はどのような対応を?

 東京オフィスの地下で遅めのお昼ご飯を買って戻ろうと、東京ミッドタウンのエレベーターに乗ろうとしていた直前に揺れがきました。その後オフィスは全館避難となったため、そのまま財布と買い物袋を持ったまま……裏の公園に避難しましたが、「とにかくニュースを更新しなくちゃいけない」と。避難者で溢れる公園で仲間を探していました。そのとき、「エンジニアはいるか」と編集担当の伊藤儀雄が叫ぶ声が聞こえて……伊藤の自宅が会社の近くだったので、そこまでもう1人のエンジニアと計3人で走って移動し、伊藤の自宅PCからトピックスを更新できるように設定しました。
 そこでテレビをつけたら、宮城の荒浜に津波が押し寄せてくる中継映像がうつっていて、「これは大変なことになっている」と。作業の一方、テレビの前で泣いていた記憶が残っています。

情報を発信しているのに、一番欲しい情報がない

――目の前の業務に向き合う一方で、家族の身を案じる状況だったと思うが

 まずは自分の実家がどうなっているか、ということが気がかりだったのですが、電話もメールもつながらず安否がわからない状況でした。震災関連のニュースを発信しながらも、自分が何より一番欲しい家族に関する情報が手に入らない。手元のインターネットはその課題を実現してくれない。多くのユーザーにニュースを発信しながら、「災害時にも備えてYahoo!ニュースというシステムを作ってきてよかった」という思いと同時に、「インターネットって本当に情報を伝えられているのだろうか」という、相反する複雑な思いの中にいました。
 家族の無事を知ったのは翌日の朝でした。親族は幸い命は助かりましたが、父方の実家が牡鹿半島で牡蠣の養殖をやっており、施設は全て流されてしまいました。

――震災発生後の数日間は、具体的にどのような作業を?

 余震がいつくるかわからない状況だったので、スタンバイ機を普段より多くしたり、通常より冗長な構成にしたりとシステムを手厚くする作業などを泊り込みで行っていました。社内の他サービスに「余っているサーバありませんか」と声を掛けてかきあつめて、何十台と表示用のサーバを追加して、メンテナンスをして追加して……を繰り返していました。
 通常はしかるべきルートを通してサーバを追加しなくてはいけないのですが、ニュースサービスは優先的に使用させてもらい、現場判断で物事が進んでいきました。一方で、メールで親族から安否は伝えられていたものの、石巻にいる親と電話が通じたのは発生から一週間後でした。

――すぐに実家に駆けつけたい気持ちだったのでは

 すぐ故郷にいって支援を、というよりも、自分の場合は「今やれることをここでやったほうが被災地や実家のためになるから、目の前で、東京で、できることをやろう」という気持ちで動いていたような気がします。「電気が足りない、足りない」といわれていた計画停電の最中にサーバを使わせてもらっている立場だったので、「情報をちゃんと届けられるようにしないと、世の中に申し訳が立たない」という気持ちでした。

復興は、技術だけでは解決できない

 実家を案じながら東京でYahoo!ニュースの業務に追われていたが、「どんな過酷な状況だったのか自分の目で見たい」との思いから、2011年3月27日に石巻の実家を訪れた。変わり果てた故郷の風景を前に、ある思いが芽生えたという。


津波被害を受けた石巻市(2011年3月・石森洋史撮影)↑↓

――被災した故郷を見て、何を思ったか

 
まず「インターネットで何ができるんだろう」と考えたのですが、実際に故郷をみて、「この状況を何とかするためには、技術だけでは解決できない」と感じました。当時はエンジニアとしての技術で解決できることしか知りませんでしたが、そのときから、エンジニアという枠を超えて、「何でもやろう」と思うようになりました。東京にある石巻のアンテナショップにお手伝いで顔を出すなど、個人的な活動なども行うようになりました。

「石巻に支社を作るんだけど、行く?」

 2012年夏、ヤフーは宮城県石巻市に現地オフィス「ヤフー石巻復興ベース」を開設。その立ち上げメンバー5人の中に、石森の名前があった。

現地オフィス「ヤフー石巻復興ベース」(宮城県石巻市)

――石巻復興ベースに異動したきっかけは

 かつてYahoo!ニュースの責任者だった川邊(※現ヤフー副社長・川邊健太郎)と、2012年3月ごろ東京オフィスのエレベーターの前で偶然会って、当時お手伝いをしていた石巻のアンテナショップのポストカードを「良かったらどうぞ」と渡したんです。その時に「今度石巻に支社を作ろうと思っているんだけど、行く?」と言われまして……その場で「はい」と(笑)。 
 2007年に新卒で入社した時から、「地元にインターネットを持って帰りたい」という思いがずっと頭の片隅にあったので、そのタイミングがめぐってきたような気持ちでした。

――石巻では、どんな業務を

 復興支援室の一員として「復興デパートメント」の運営など、エンジニアの枠を超えて、企画やディレクションなど何でもやってますね。「何でも屋」という感覚です。震災を機に、お金の流れや企画的なスキルも含めて、インターネットの技術だけではなくもっと世の中を知る必要がある、と思ったので、石巻に移ってからはとにかく何でもやってきたつもりです。
 今は東北産の牡蠣に関わる業務に携わっていますが、どのヤフー社員よりも牡蠣に詳しい自信はあります(笑)。広く手をつけすぎて専門性がないんじゃないか、という悩みに今は陥ってますが……でもそれが現地で求められていることなら、進んで何でもやるべきだと思いますし、現地の人と話して会話をして、そこで感じたことを東京にフィードバックするのも自分の仕事だと思っています。

魚市場へカメラ片手に取材に行くことも(宮城県塩竈市)

――インターネットの会社が、地方に拠点を構える意味は

 インターネットってつながればどこでも仕事が出来てしまうけれど、実際に行ってみてあらためて感じたことは、現地で顔をみて話をしてコミュニケーションを取らないと解決できないことがあるということ。リアルなコミュニケーションでしか解決できない課題がたくさんある。東京の本社と同じことをしてても意味がないので、それは常に意識するようにしています。

石巻で見えた、「ニュース以外の」情報発信の形


石巻復興ベースのスタッフや現地の生産者らと(右端・石森)

――Yahoo!ニュースを抜けることに未練はなかった?

 新卒入社時からずっとYahoo!ニュースにいたので、「情報発信したい」という気持ちもありましたが、実際にeコマース(EC)に業務を移してみると、別の形での情報発信ができることに気づいたんです。石巻の情報発信に限っていうと、Yahoo!ニュースでそれを100%達成できているかというとまだまだ課題も多いと思いますが、例えば「この商品○○は美味しいです、なぜかというとこの山の地形にこんな特徴があって……」というように、必ずしも「ニュース」という形態でなくても、商品を通じて地元の情報を届けることができる。そういう意味では、ECは地方活性化のツールの一つとして筋がいいのではと思っています。

――震災からもうすぐ4年が経つ。地元に拠点を移して思うことは

 他の全国の地方都市よりも先に、衰退に拍車がかかった状態が石巻の姿だと思う。震災で、他の地方都市よりも先に右肩下がりの苦しみを体験している。被災地だけではなく、全国に通じる課題もある。だから今後、ここで石巻を変えることができたら、それをモデルケースに横展開することによって、被災地である・ないに関わらず他の地方も変えられる可能性があるんじゃないかなと、今は思っています。

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