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認知症薬、脳の「関門突破」に前進――悲願達成へ治験の現場

2018/02/03(土) 09:28 配信

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高齢化が進む各国で、認知症が社会を揺るがす問題となっている。世界中で認知症の治療薬の開発が進められているが、薬を脳の中に到達させるには、脳の血管にある「関門」が壁になってきた。それを突破するメカニズムを持った新薬が、ブラジルで始まった「ハーラー病」の治験で成果を上げつつあるという。認知症薬の開発を大きく進展させるのか。医療の最新現場をレポートする。(取材・文=NHKスペシャル「人体」取材班/編集=Yahoo!ニュース 特集編集部)

「これまでさまざまな治療法を試してきましたが、症状はまったく良くなりませんでした。この新しい薬だけが、私たちに残された希望なのです」

点滴をつないだ息子の枕元で、母親のゴレテ・オリベイラさん(42)はそう話す。息子のルイス・オリベイラ君は、生後9カ月の時に「ハーラー病」と診断された。ルイス君は今、ブラジル南部の都市ポルトアレグレでハーラー病の新薬の治験を受けている。

投薬前、ベッドの上で診察を受けるルイス君(画像:NHK)

「生後2カ月くらいでヘルニアが見つかりました。ヘルニアはよくある症状なので(病気などは)疑いませんでした。しかし生後6カ月を迎えたとき、何かが違っていると疑いはじめました」

「ムコ多糖症」と称される病気の一つであるハーラー病。先天性の代謝疾患の一つとされ、「GAG(グリコサミノグリカン=ムコ多糖)」と呼ばれる物質を分解する酵素の働きが生まれつき不十分だったり、酵素自体を持たなかったりする。その結果、脳の神経細胞にGAGが蓄積し、運動機能や認知機能に障害を引き起こす難病だ。厚生労働省によると、ムコ多糖症全体の発症頻度は日本人で5万〜6万人に1人とされる。

軽症な子どもであれば、認知能力や運動能力に問題があっても基本的な日常生活も可能な場合があるが、ルイス君はひときわ症状が重く、母の助けなしには日常生活を送れない。10歳となった今も、自分の足で歩くことや、はっきりとした言葉で会話を交わすこともままならないという。

10歳前後で命を落とすケースも

2016年2月から参加している新薬の治験は、ゴレテさんとルイス君の希望となっている。自宅から1000キロ離れたポルトアレグレ市内のアパートホテルに滞在しながら、週に1度、大学病院に通う。

母のゴレテさん(左)に手を引かれて病院に向かうルイス君(画像:NHK)

一般の診察が始まるより前の早朝7時過ぎ。市の中心にある大学病院に、3歳〜16歳までの子どもたちが母親に連れられて次々とやってくる。ハーラー病の治験に参加する子どもたちだ。

子どもたちは病室のベッドで横になると、5時間ほどかけてGAGを分解する薬の点滴を受ける。一つの部屋に並ぶベッドは6床。点滴を受ける子どもの横には、わが子を見守る母の姿がある。

投薬中、母親たちは子どものそばを離れることなく、見守り続けていた(画像:NHK)

ハーラー病の患者には、これまでもGAGを分解する薬を脳に送り込む治療が試みられてきた。しかし効果は上がらず、患者の中には10歳前後で命を落とすケースも少なくなかったという。

この大学病院で30年以上にわたり、ハーラー病治療の最前線に立ち続けてきたブラジル・ハーラー病協会会長のロベルト・ジュリアーニ医師は「今回の新薬はそんな状況を劇的に変えてくれる可能性がある」と大きな期待を寄せる。

「子どもたちを助けるための光が、ようやく見えてきました。この薬が注目されるのは、これまでの薬では越えることができなかった『血液脳関門』を突破して、脳の中へと到達する画期的な仕組みがあるからです。"血液"と"脳"との間に立ちはだかる"関門"を意味するこの血液脳関門が、これまで脳に薬が入るのを阻んできたのです」

薬を投与する前、子どもたちの診察を行うジュリアーニ医師(画像:NHK)

「奇跡が起きることを願えるようになった」

2015年10月から始まった治験は現在、大きな成果を上げ始めている。

治験に参加している子どものうち、ルイス君を始めとした症状が重い患者8人中7人に、認知面や運動面で症状の改善がみられているという。

ゴレテさんは言う。

「この子は人と関わり合うのが嫌いで、自分の世界に閉じこもりきりでした。でも今はいろいろなことに興味を示すようになってくれて、私たちとも気持ちを通じ合わせてくれるようになりました。もちろん、私たちはこの子の病気がどれほど困難なものなのか知っています。でも、この薬と出会って私たちは希望を持てるようになりました。奇跡が起きることを、願えるようになったのです」

滞在するアパートホテル近くの公園で。母・ゴレテさんに甘える、ルイス君(画像:NHK)

ジュリアーニ医師もこの結果を前向きに受け止めている。

「ハーラー病は、GAGが神経細胞の中にたまり続けてしまう病気なので、症状の進行を抑えるだけでも大変です。それが改善の兆候を見せているのですから、薬が神経細胞に届いている可能性が高いと考えられます」

薬の到達を阻んできた「血液脳関門」とは

通常、点滴や錠剤などによって私たちの血液中に溶け込んだ薬は、血液の流れに乗って移動し、その薬を必要とする臓器へと届く。それを可能にしているのは、体内の血管の壁にある"すき間"だ。血管の壁には、薬が通ることができるほどの小さな"すき間"が開いている。一方、脳の血管は厚い細胞の壁で覆われているため、この"すき間"がほとんどなく、薬が通り抜けることができないという。

脳の中では、神経細胞の間をぬうように毛細血管が張り巡らされている(画像:NHK)

なぜ脳の血管だけに、この血液脳関門のような特殊な構造があるのか。

「血液脳関門」研究の世界的権威で、このハーラー病の新薬を開発した米国・カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のウィリアム・パードリッジ名誉教授は、こう話す。

「それは、血液中を漂うさまざまな物質が無秩序に流れ込んで脳の神経細胞の働きに支障をきたさないよう、血管が進化してきたためです。血液脳関門は、脳の働きを健全に保つうえで重要な役割を果たす一方、脳の中に薬を送り込んで病気を治そうとすると、これを阻んでしまう。いわば『諸刃の剣』になっているのです」

自らが開発した薬を手にする、パードリッジ名誉教授(画像:NHK)

認知症薬の開発にもつながる、突破のメカニズム

現在、ブラジルで治験が行われているハーラー病新薬の開発に成功すれば、認知症の進行を食い止める特効薬の開発の道筋が見える、とパードリッジ名誉教授は言う。なぜなら、認知症の治療を妨げているのも、この血液脳関門だからだ。

認知症のなかでも最も大きな割合を占める「アルツハイマー病」は、一説によれば「アミロイドβ」と呼ばれる有害なたんぱく質が脳にたまり、神経細胞を次々に壊してしまうことで起きると考えられている。アミロイドβを分解する薬を脳に送り込むことで病気の進行を食い止めようと、これまで多くのアミロイドβ分解薬が作られてきたが、血液脳関門を突破して脳に届き、アミロイドβを分解できる薬は、まだ一つも報告されていないというのだ。

アルツハイマー病の人の脳に蓄積したアミロイドβ(提供:東京都健康長寿医療センター 村山繁雄)

ハーラー病の新薬が注目を集めるのは、血液脳関門を突破するよう計算された特別なメカニズムがあるからだ。この薬を開発するにあたってパードリッジ名誉教授が目をつけたのは、血液の中を流れるある物質だった。

「それは、私たちが食事をして血糖値が増えた時、すい臓から血液中へと放出されるインスリンです。インスリンはそのままでは血液脳関門を通り抜けることができないほど大きいのに、なぜか、血液を介して脳の中に入り込むことが知られていました。インスリンのような物質が血液脳関門を越えるメカニズムが分かれば、薬を脳へと送り込む手立てが見えてくるのではないか。そう考えたのです」

そして苦心の末、パードリッジ名誉教授は一枚の写真の撮影に成功する。カプセルのような薄い膜に包まれた物質が、血液脳関門を通過していく決定的瞬間が写されたものだ。

小さな物質が、血管の壁を越えて、血管の中から脳へと向かう様子を捉えた写真(画像:NHK)

研究を進めると、インスリンが血管の壁にある「小さな突起」にくっつくと、血管の細胞膜が小さなカプセルを作ってインスリンを包み込み、そのカプセルごと血管の壁の反対側、つまり脳の中まで運んでくれる、という詳細な仕組みが明らかとなってきた。

「私たちはインスリンを運ぶこのカプセルを薬の運び屋として利用してやろうと考えました。薬をここに入れてしまえば、脳の中まで運んでくれると考えたのです。そして私たちは、血管の壁にある"小さな突起"にくっつく性質のある特別な抗体を見つけ出しました。その抗体にGAGを分解する薬をくっつけて血液の中へと送りこめば、脳の中へと運ばれるはずだと考えたのです。そうして開発したのが、このハーラー病の新薬だったのです」

インスリンを受け止める「突起」に、抗体(白)と薬(青)がくっついた瞬間。このあと血管の壁が陥没してカプセル状の膜を作る(画像:NHK)

カプセル状の薄い膜につつまれて、薬が血管の壁を通過していく(画像:NHK)

パードリッジ名誉教授が、血液脳関門を突破する物質の写真を撮影したのが1985年。翌年には、このメカニズムを利用して薬を脳に送り込むアイデアについて特許を申請し、89年に認可。実際に薬を開発し、サルを使った実験を経て、人間の治験にこぎ着けるまで30年の道のりだった。

“関門”を越えた先にある未来

「アルツハイマー病の原因とされるアミロイドβは30年以上も前に発見されているのに、いまだに病気の進行を止める治療薬がないなんて、本当にショックです。すべてこの脳関門が原因です。とてもシンプルです」

パードリッジ名誉教授はそう話す一方で、血液脳関門を突破する"治療薬"がなかなか開発されなかった背景には、医学界の教育問題があると指摘する。

「これまで医学の世界では、血液脳関門の専門家を育てる教育を怠ってきました。アメリカに関して言えば、ほとんどの大学に血液脳関門を専門に教える学科すらないんです。だから製薬会社が血液脳関門を突破する薬を開発できないのは、当然と言えば当然なのです」

「そのつけが今、アルツハイマー病治療薬の開発に回ってきています。アルツハイマー病に特化した研究室が世界にどれだけあるかご存じですか? おそらく1000は下らないでしょう。でも、血液脳関門の研究室は世界に10もないのです」

パードリッジ名誉教授は、同じ技術を用いたアルツハイマー病の薬の開発にも既に乗り出している。資金が集まり、治験の許可が下り次第、臨床試験に入る考えだ。

「もしこの薬が成功を収めれば、大手の製薬会社もこの分野に続々と乗り込んできて、独自の技術を開発しようとするでしょう。多くの資金が集まるようになり、多くの臨床試験も行われるでしょう。そうして初めて、アルツハイマー病の治療につながる道筋が見えてくるのです。ここにたどり着くまで、本当に困難な道のりでした。30年以上にもわたる私の悲願が、ようやく手の届くところまで来たのです」


NHKスペシャル「人体 ~神秘の巨大ネットワーク~」
第5集「“脳”すごいぞ! ひらめきと記憶の正体」 2月4日(日)夜9時~(NHK総合)

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