2016年、2400万人を突破した訪日外国人の旅行者数。そんな中、日本の高度な医療サービスを目的に訪れる外国人も増えている。こうした医療目的の渡航は、海外では「医療ツーリズム」と呼ばれ、新たな成長産業として広く認知されている。日本の医療現場では今、何が起きているのか。外国人患者の声とともにレポートする。
(ライター・庄司里紗/Yahoo!ニュース 特集編集部)
年間500人の外国人がPET検査を受診する
午前8時。東京都文京区にある日本医科大学健診医療センター。待合ロビーでは、1人の男性がスタッフの女性から説明を受けていた。
中国・山東省から来た会社経営者・張志成さん(59)。日本で健診を受けるため、1週間の予定で滞在しているという。
「日本を拠点にビジネスをしている中国人の友人から、こちらの健診センターの評判を聞き、受診を決めました」
張さんが今回受診したのは、PET(陽電子放射断層撮影)検査だ。PETは点滴投与した検査薬でがん細胞をマーキングし、特殊な装置で撮影することで、小さながん細胞でも早期に発見できるとされる検査法だ。
「中国にも最新の設備を整えた病院はあります。ただ、待ち時間がとても長く、検査の精度もいまひとつで、がんを見つけられないことも多い。その点、日本の医療技術は高品質。検査も非常に細かくていねいに見てくれますし、スタッフも親切で安心感があります」
検査中、張さんのかたわらには医療専門の通訳が常に付き添い、医師の説明を逐一、訳して伝える。この日の検査は問診から点滴、PET撮影などを行い、3時間半ほどで終了。明日も別の医療機関で人間ドックを受けるという張さんは、「時間に余裕があれば富士山を見に行きたい」とうれしそうに話した。
同センターの全身PET検査の費用は、日本の公的医療保険の対象にならない人の場合、約15万円。しかし、日本への渡航費や宿泊費、食費などは含まれないため、前後に他の検査も組み合わせれば、費用の総額が100万円を超えることも珍しくない。
それでも、日本の高度な医療サービスを希望する外国人は年々、増加傾向にある。例えば、2011年に70件だった医療滞在ビザの発給数は、2016年に1307件を数え、わずか5年で約19倍に激増した。
一方、医療目的で訪日する外国人の大半は、「医療滞在ビザではなく観光ビザで入国し、旅行の合間に健診や美容医療を受けている」と複数の医療関係者は口をそろえる。
今年8月、厚生労働省が結果を公表した「医療機関における外国人旅行者及び在留外国人受入れ体制等の実態調査」によれば、平成 27 年度に健診を含む医療目的で来日した外国人患者を受け入れた医療機関は全体の17.3%(295病院)に上ったが、そのうち患者数を「把握していない」と答えた医療機関はおよそ6割に及んだ。また、今回の調査では外国人富裕層向けに美容医療などを行う個人クリニックは対象としていない。こうした実情を考えれば、実際にはさらに多くの外国人が医療目的で渡航しているのが現状だろう。
現状、とくにニーズが高いのは、PET検査や人間ドックを含む「健康診断」の領域だ。日本医科大学健診医療センターの百崎眞(ももさきまこと)事務室長はこう話す。
「現在、当センターでは年間500名以上の外国人の方に検査を実施しています。受診のほとんどは中国の方です」
百崎氏によれば、中国人の受診希望者が目立って増え始めたのは5〜6年ほど前。ちょうど円安やビザ要件の緩和などで、訪日外国人観光客が急激に増え始めた頃だ。
外国人受診者の多くは、医療機関との間に立って渡航サポートや通訳の手配を行うコーディネート会社を通じて来院する。同センターと提携するコーディネート会社の一つ、日本抗加齢センターの真野博氏は、背景をこう推察する。
「中国ではマスメディアの情報よりもソーシャルメディアや知人の口コミを重視します。実際に日本を訪れ、医療機関を受診した人たちの口コミや投稿が呼び水になった可能性はあるでしょう」
「医療ツーリズム」という言葉そのものが禁句に
日本で「医療ツーリズム」が注目されはじめたのは、民主党政権時代に遡る。2010年6月に閣議決定された「新成長戦略」で、国際医療交流の促進が明言されたのだ。世界的にも高水準な日本の医療で外国人患者を誘致し、タイやシンガポールなどこの分野で先行するアジア各国を追い上げる狙いだった。
政府は、医療目的で訪日する外国人向けの「医療滞在ビザ」や「外国人患者受入れ医療機関認証制度(JMIP)」を創設。また、経済産業省の主導で外国人患者の受け入れを支援する組織「Medical Excellence JAPAN(MEJ)」を発足。“成長産業としての医療”を見据えた下地づくりを進めていた。
ところが、事はスムーズに進まなかった。国の急速な動きに対し、医療界から強い反発の声が上がったのだ。日本医師会は2010年6月9日の定例記者会見で、自由診療の外国人が高額な医療費を支払うケースが常態化すれば、保険診療の日本人患者が後回しにされかねないと指摘。厚生労働省も、医療に市場原理が導入されることについて強い懸念を見せた。
日本には「国民皆保険制度」があり、医療は「産業」ではなく「社会保障」の側面が強い。そもそも医療制度の根幹に関わる「医師法」の第一条には、<医師は、医療及び保健指導を掌(つかさど)ることによつて公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もつて国民の健康な生活を確保するものとする>と記され、対象者が「国民」と指定されている。医師法は外国人を想定していないのだ。
つまり同じ政府の戦略にもかかわらず、産業として推進したい経産省は“積極的”だが、国民の医療を第一に考える厚労省は“慎重”と立場が分かれることになった。
こうした考えの違いから、「医療ツーリズム」という単語自体も「商業主義を連想させる」として各方面で使われなくなり、「国際医療交流」「医療渡航支援」といった言葉に置き換えられていった。
何よりも“公益性”が重視される日本の医療
「日本では医療の公益性が非常に重視されます。当時、医療ツーリズムが問題視されたのは、医療提供による国際貢献よりも医療を売りとした観光受入が強調されていたことが原因でした」
そう語るのは、前出のMedical Excellence JAPAN(以下、MEJ)の北野選也・理事だ。MEJは安倍政権のもと、2014年4月に医療の国際展開を国内外に推進する組織へと改組された。北野氏によれば、この数年で医療ツーリズムについての認識は変わり始めているという。
「外国人患者の受け入れ、つまり医療渡航支援には、医療を必要とする人々を国境を超えて受け入れる人道的な意義があります。また、日本の人口減による患者数の減少をカバーする新たな医療需要と考えることもでき、地域医療インフラの維持にもつながります。それは商業主義ではなく、国民の医療に資する“公益”にほかなりません。そういうコンセンサスが、ここへ来てようやく浸透しはじめているのです」
実際、MEJは現在、外国人患者の受け入れに意欲や取り組みのある病院を「ジャパン インターナショナル ホスピタルズ(以下、JIH)」という枠組みで海外へ推奨する独自の制度を進めているが、医療界の反発を招くことはなかったと北野氏は言う。
「JIHは、日本国外に住む外国人に日本の受け入れ体制の整った病院の情報を紹介し、医療渡航を支援する制度です。推奨制度の設計には、先行する医療機関、日本医師会をはじめ、経産省、厚労省など関連省庁にも快く協力していただきました」
JIH推奨病院は2017年7月末時点で16都道府県35病院となり、登録数は徐々に拡大している。
地方創生の切り札として注目される医療ツーリズム
一方、医療ツーリズムは「地方創生」事業の切り札として期待されてきた側面もある。
外国人富裕層が治療やリハビリなどで長期滞在すれば、周辺施設では一定の経済効果が期待できるからだ。そのため一部の地方では、医療機関と自治体、観光協会などが連携し、積極的に外国人患者の誘致に取り組むケースも散見される。
鹿児島県指宿市に立地する「メディポリス国際陽子線治療センター」も、早くから医療ツーリズムに取り組んできた医療機関の一つだ。同センターは九州初の粒子線治療専門施設として2011年に治療を開始。得意とするのは陽子線を使った「切らないがん治療」だ。荻野尚センター長が説明する。
「特殊な装置を使い、体の深部にあるがん細胞を陽子線で正確に“狙い撃ち”できるため、従来の放射線治療と違って周辺の正常な組織を極力傷つけずに済む利点があります」
同センターは、開設当初から外国人患者を積極的に受け入れてきた。広報の大松茂氏が語る。
「私たちは今後予想される人口減を見据え、グローバルな展開を進めてきました。日本人以外にも治療対象を増やしていくことは当初からの課題でした」
外国人患者の自由診療による収入は、保険点数に依拠しない収入になるうえ、1件あたりの収入も高額になる。それらは経営基盤の強化にもつながり、医療機関としては魅力に映るのも確かだろう。
同センターはこれまで50人以上の外国人患者の治療を実施してきたが、そのうち9割以上が中国からの医療渡航者だ。
九州エリアの医療機関と提携し、中国企業の健診ツアーや個人の医療渡航サポートを手がけるヘルスツーリズム主催旅行会社「株式会社SGW」の竹下哲郎代表取締役が語る。
「中国にも粒子線治療を始め、先進医療が受けられる医療機関はあります。しかし、施設数が圧倒的に少ないため、治療まで半年以上待たされることも珍しくない。そのため一日でも早く治療を受けたい患者さんが、安心・安全・高品質、信頼のおける日本での治療を選択するケースが増えてきています」
竹下氏が渡航をサポートした河北省の劉欣怡さん(仮名・30代女性)も、日本での陽子線治療を希望した一人だ。劉さんが言う。
「私の腫瘍は非常に治療しにくい位置にあり、中国国内では治療できる機関が見つからず、困っていました。そんなとき、ある中国人ブロガーがこのセンターの陽子線治療について紹介したブログ投稿を偶然見つけたのです」
ブロガー経由で同センターに連絡を取った劉さんは、竹下氏を紹介され、日本の医療滞在ビザを取得。付き添いの夫とともに隣接のホテルに滞在しながら、2カ月の予定で治療を受けていた。
しかし、陽子線治療の費用は高額だ。保険外診療のため、日本人でも1部位あたり300万円ほどが必要だが、外国人患者の場合は500万円ほどが前金で必要だ。 また、陽子線治療は通常、数週間かけて行われるため、同行する家族の分も含めた滞在費を加えれば、費用総額はさらに跳ね上がる。
メディポリス国際陽子線治療センターの荻野氏は、費用が高額になる理由をこう説明する。
「海外から患者さんを受け入れる場合、カルテやCT画像の事前取り寄せや通訳・翻訳など治療準備から治療まで、期間中を通して多大な手間がかかる。こうした事情から価格設定は高めにならざるを得ない」
結果的に、外国人の受け入れには医療機関側に大きな負担がかかる。実際、新たな収益の柱として外国人患者を受け入れたものの、トラブルが続出し、受け入れを断念した地方の医療機関は少なくないという。
それでも外国人を受け入れるのは「医療に国境を設けない」という思いからだと荻野氏は言う。
「国内外を問わず、医療を必要としている人に、必要な医療を提供するのが私たちの役目ですから」
課題は解けるか
少しずつ拡大する医療ツーリズムだが、発展していくためのハードルは低くない。課題の一つが「医療コーディネートに関わる企業の質の向上」だ。
コーディネーターの中には、患者を医療機関に送るだけで適切なケアを怠ったり、法外な手数料を取ったりする業者もいるという。中国国内では、日本の医療について誇大な宣伝を繰り返す悪質な業者も少なくない。こうした業者の存在は、医療現場でのトラブルの原因になっている。「人命にかかわる医療分野においては、コーディネーターの品質管理は急務」と、前出の株式会社SGWの竹下氏は力を込める。
ほかにも、医療通訳の質的な水準の不均一、絶対的な人数の不足などもある。2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催を控え、今後ますます多くの訪日外国人が医療機関を受診することが予想される中、医療現場における言葉の問題は喫緊の課題だ。
一方で、高齢者が増え、医療ニーズが高まる日本において、どれほど訪日外国人を医療サービスで受け入れるべきかという議論もある。日本の国民皆保険制度と関わりのない外国人の受け入れは医療機関にとって収益拡大にもつながるが、無制限に引き受けていけば地域医療における公益性を損なう可能性もある。
冒頭に紹介した日本医科大学健診医療センターの百崎事務室長は、同センターが外国人受診者の年間受け入れ数の上限を定めているとし、こう語る。
「検査を希望する外国人は、受け入れ数の2〜3倍に達しています。しかし、彼らを際限なく受け入れれば、大学病院として果たすべき機能が維持できなくなってしまうため、断らざるを得ない」
さらに、医療ツーリズムと公益性のバランスについて明確なガイドラインがなく、それぞれの医療機関に判断が委ねられている現状が問題と指摘する。
「増え続ける外国人受診者のニーズに対して、どう対応すべきかは悩ましい問題です。この点については政府がより統合的なビジョンを示すべきでしょう。外国人患者の受け入れは、日本の医療のグローバル化やレベルアップの契機との見方もできる。それは長い目で見れば、国民の医療の向上にも寄与するはずです」
今後も張さんや劉さんのように、日本の医療に信頼を寄せ、はるばる海を渡ってくる外国人患者たちが減ることはないだろう。
「やっと治療を受けることができて、ほっとしています」
取材の半ば、劉さんは自然な表情でそう呟いていた。
医療の公益性とは何なのか。日本の医療はその根幹について再考の時を迎えている。
庄司里紗(しょうじ・りさ)
1974年、神奈川県生まれ。大学卒業後、ライターとしてインタビューを中心に雑誌、Web、書籍等で執筆。2012〜2015年の3年間、フィリピン・セブ島に滞在し、親子留学事業を立ち上げる。明治大学サービス創新研究所・客員研究員。
[写真]
撮影:八尋伸
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝
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