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仲宗根香織

自衛隊は夜明け前に 沖縄慰霊の日 さまざまな祈り

2017/07/07(金) 12:34 配信

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通り過ぎてゆくニュースだけでは、見えないものがある。なかなか分からないことがある。今年の6月23日、「沖縄慰霊の日」もまさに、そうだったかもしれない。沖縄本島の最南端にある「摩文仁(まぶに)の丘」。沖縄戦最後の激戦地だった丘では、今年も首相や県知事が出席し、戦没者追悼式があった。もちろん、それだけではない。テレビや新聞で伝わる以外にも、多くの人々がさまざまな形で祈った。沖縄戦終結から72年。摩文仁の丘の1日を夜明け前からカメラで追いかけた。(新田義貴/Yahoo!ニュース 特集編集部)

午前5時 自衛隊幹部たちが制服で

夜が明けきっていない糸満市の「摩文仁の丘」。見渡せる海はまだ黒い。制服を着た自衛隊員の一団が現れた。およそ30人が「黎明(れいめい)の塔」を目指して進んでいく。那覇に駐屯する陸上自衛隊第15旅団の幹部たちだ。暗い中、靴音が響いた。

「摩文仁の丘」の1日を追ったドキュメンタリー動画(8分強)は、その場面から始まる。米軍も含め、さまざまな思いが交錯した1日を感じ取ってほしい。

黎明の塔は、米軍に追い詰められた日本軍(第32軍)の司令官、牛島満中将が自決を遂げたとされる地に立っている。自決は1945年6月23日とされ、その日に日本側の組織的な戦闘は終わった。

日本側の死者約20万人のうち、一般の県民は約9万4000人に上った。沖縄県民の間では「日本軍は住民を守らなかった」「沖縄は本土防衛の捨て石にされた」という思いが強い。「黎明の塔」への参拝は1972年の本土復帰直後に行われたものの、そうした反発により自衛隊側は長く参拝を取りやめていたという。

夜が明け切らぬ中、陸上自衛隊第15旅団の幹部たちが慰霊のためにやってきた(撮影:仲宗根香織)

参拝の復活は小泉政権下の2004年だった。それ以降、参拝は毎年続き、制服着用ながら「私的参拝」と説明されている。

原田智総第15旅団長はこの朝、「どういったお気持ちで参拝されましたか」というYahoo!ニュース 特集編集部の取材に「平和は重要だという思いで、私人として参拝させていただきました」と答えた。

黎明の塔。牛島満中将が自決を遂げた場所とされる(撮影:仲宗根香織)

この参拝を、琉球大学の教員と学生たちが見学に来ていた。日が昇り、海が青くなったころ、非常勤講師の北上田源さんが学生たちに説明を始めた。「沖縄の基地と戦跡 Ⅰ」という授業を受け持っている。

「日本軍はアメリカ軍の日本本土上陸を1日でも遅らせるため、多くの住民が逃げ込んでいた本島南部での地上戦を行いました。『(軍が)沖縄の住民を守った』とは言えない。自衛隊の人たちは、こうした歴史を本当に直視しているのでしょうか」

琉球大学非常勤講師、北上田源さん。(撮影:仲宗根香織)

午前8時半 韓国人慰霊塔の前で

摩文仁の丘には、韓国人慰霊塔もある。午前8時半、その前に在日本大韓民国民団沖縄県地方本部の人たちが集まった。沖縄戦で犠牲になったすべての人々の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」の間近である。

平和の礎には米兵の名も韓国人の名もある。沖縄戦では、日本の植民地だった朝鮮半島出身者も犠牲になったからだ。慰安婦や軍の労働に従事した「軍夫」を含む相当数の人々が犠牲になったとされるが、当時の資料は極端に少なく、事実の解明は困難を極めている。犠牲者の個人名はもとより、正確な数も分かっていない。

「平和の礎」に刻まれた朝鮮半島出身者の名前。多くの人々が犠牲になったと言われるが…(撮影:仲宗根香織)

民団沖縄県地方本部の金美敬事務局長に聞くと、今年は平和の礎に韓国人15人の名前が新たに刻まれたという。追加は7年ぶりだった。これで韓国・朝鮮人は計462人。それでも刻銘版には多くの空白があり、金さんも「犠牲者を探す努力が(日本政府や民団も含めて)まだまだ足りないと思う」と話した。

韓国人慰霊塔で黙祷する人たち(撮影:仲宗根香織)

午前10時半 沖縄の米兵たち

午前10時半になると、正装した米兵たちが摩文仁の「平和祈念公園」を行進してきた。園内の「平和の礎」に着くと、在沖縄の第3海兵遠征軍の司令官、ローレンス・ニコルソン中将が「ここは先人たちが眠る場所。聖なる土地です」と演説を始めた。

米海兵隊のローレンス・ニコルソン中将(撮影:仲宗根香織)

沖縄戦では約1万2000人の米兵が犠牲になっている。米軍にとって太平洋戦争で最大の犠牲だった。

沖縄の米軍基地の多くは沖縄戦で犠牲になり、名誉勲章を授与された兵士の名を付けている。例えば、普天間基地の移設先として、新基地の建設が始まっている名護市辺野古のキャンプ・シュワブ。ここは、日本軍の砲兵陣地を火炎放射器で攻撃したアルバート・E・シュワブ1等兵にちなんだ。彼は当時、24歳だった。

慰霊祭には米兵が正装で参加した=上。平和祈念公園内の「平和の火」=下(撮影:仲宗根香織)

夕方 かつての「骨塚」で

夕方、摩文仁からやや離れた「魂魄(こんぱく)の塔」に出向いた。沖縄最初の慰霊塔と言われる。沖縄では、肉親がどこで亡くなったか今も分からず、遺骨もないという人は少なくない。

魂魄の塔はそこら中に散らばっていた遺骨を集めて供養した骨塚だ。骨塚にはやがて蓋がされ、塔が建てられ、そして今の慰霊塔になったという。

沖縄最初の慰霊塔と言われる魂魄の塔(撮影:仲宗根香織)

6月23日には、今も遺骨が見つからない遺族らがここを訪れる。その1人は取材にこう言った。「もしかしたら、ここに遺骨が入っているかもしれない、と。そういう気持ちで毎年来ます。(ここに遺骨があるかどうか)はっきりしませんけど、それでもここに来れば気持が落ち着くんです」

沖縄の遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」は今年、民間人の遺骨のDNA鑑定を求め、厚生労働省に集団申請を行う。これまで厚労省によるDNA鑑定は、対象を軍人・軍属に限定してきた。戦後72年。厚労省は初めて、その対象を民間人に広げようとしている。

遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表・具志堅隆松さん。遺骨のDNA鑑定の集団申請を呼びかけている=上。「魂魄の塔」には遺骨が見つからない多くの人々が訪れた(撮影:仲宗根香織)

文中と同じ動画


新田義貴(にった よしたか)
ユーラシアビジョン代表。ディレクター。1969年東京都出身。NHKでアジアや中東などを舞台にドキュメンタリー番組を制作し、2009年に独立。監督映画に「歌えマチグヮー」「アトムとピース」。

[写真]撮影:仲宗根香織
[動画]制作:ユーラシアビジョン