「太りやすい」「空気が読めない」「勝負に弱い」、そんな悩みの原因は、もしかしたら「睡眠負債」かもしれない――わずかな睡眠不足が積み重なり、知らないうちに命に関わる病気のリスクが高まったり、仕事のパフォーマンスが大幅に低下したりしてしまう。そんな「睡眠負債」と呼ばれる状態が、日本人の、特に働き盛りの人々に蔓延しているという。睡眠負債の弊害は個人だけでなく国家レベルにも波及しており、世界的シンクタンクによる分析では、日本だけで年間15兆円の経済的な損失を生んでいるとも指摘されている。睡眠負債の実態と、対策について取材した。(取材・文=NHKスペシャル「睡眠負債が危ない」取材班/編集=Yahoo!ニュース 特集編集部)
自分では気づけない?「睡眠負債」とは
「きちんと寝ているはずが、通勤時間や仕事中につい、うとうとしてしまう」
「仕事や家事で、思わぬミスをしがち」
「特に原因が見当たらないのに疲れやすい」
こうした症状に少しでも心当たりはないだろうか。もしかしたら、その不調は睡眠負債が原因かもしれない。
睡眠不足ならぬ、「睡眠負債」とは何か。わずかな睡眠不足の影響は、まるで借金(負債)のようにじわじわと蓄積されていき、自分でも気がつかないうちに脳のパフォーマンスを低下させてしまう。いま睡眠研究の分野では、この「蓄積した睡眠不足」のことを睡眠負債(Sleep Debt)と呼び、対策の重要性が叫ばれるようになっている。その結果、知らず知らずのうちに仕事や家事のパフォーマンスが低下したり、命にかかわる病のリスクが高まったりすることがあるという。
どういうことなのか。まず、米ペンシルべニア大学医学部などの研究チームが行った研究を紹介したい。
睡眠時間と脳の働きの関係だ。被験者をさまざまな睡眠時間のグループに分け、経過日数とともに、注意力や集中力がどう変化するかを調べた研究だ。
横軸が実験開始からの時間を示し、縦軸は、注意力や集中力を調べるテストに対する被験者の反応速度を表している。たとえば徹夜したグループでは、初日、2日目と成績が急激に下降した。蓄積した疲労などの影響で、脳の働きが急激に衰えたからだ。
意外なのは、「6時間睡眠」のグループ。徹夜ほどには急激ではないものの、時間がたつにつれ脳の働きが衰えている。14日後の結果は、2日連続で徹夜したグループと同じレベルになった。一方で8時間睡眠のグループを見ると、2週間を経過しても脳の働きは問題のないレベルを維持していた。
研究で判明したのは、それだけではない。実験中、徹夜のグループは強い眠気などを自覚していたのに対し、6時間睡眠のグループの多くは、脳の働きの衰えをそれほど自覚していなかった。極端な睡眠不足と比べ、わずかな睡眠不足が蓄積した「睡眠負債」の場合、その影響をなかなか自覚できないということだ。たとえば本調子でないことに気づかず車を運転してしまったら、注意力の低下により、思わぬ事故につながるミスを起こしてしまうかもしれない。
がん・認知症のリスクが高まる!?
日本人の睡眠時間は、短くなり続けている。
国が毎年実施している国民栄養・健康調査によれば、睡眠時間が6時間以下の人は、2008年で3割未満だった。しかし年々その割合は増え、2015年には約4割に達している。なかでも、男性の30代〜50代、女性の40代〜50代はその割合が大きかった。さらに、睡眠時間が7時間以上の人は、減少が続いており、その割合は2015年で全体の4分の1ほどに留まる。
「日本人の睡眠時間はどんどん短くなっており、先進国では最短になっています。知らないうちに睡眠負債を抱えて仕事のパフォーマンスを落としたり、運転中に注意力が低下して事故につながったりしている危険は無視できないと思います。さらに近年では睡眠負債が健康に悪い影響を及ぼすことも分かってきました」
睡眠研究の第一人者として知られる白川修一郎氏(睡眠評価研究機構代表、医学博士)は、睡眠負債は脳のパフォーマンスの低下にとどまらず、さまざまな病のリスクを高めていると警鐘を鳴らす。
たとえば東北大学が、宮城県の女性2万人以上を7年間追跡し、睡眠時間と乳がんの発症リスクの関係を調べた研究。平均睡眠時間が6時間以下の人では、7時間寝ている人に対して乳がんのリスクがおよそ1.6倍になることが分かった。
2014年に米シカゴ大学などの研究チームが発表した研究では、実験的に睡眠を不足させたマウスは、がん細胞が増殖しやすくなっていることがわかった。よく調べると、本来ならがん細胞を攻撃するはずの免疫細胞が、睡眠不足の場合、がん細胞の増殖を手助けするような働き方に転じる可能性が見えてきたという。
いずれも注目されているのは、睡眠と免疫システムの関係だ。
「結果をそのまま人間の睡眠負債にあてはめられるかどうかは、議論の余地があります。しかし私は、睡眠負債を抱える人でも同じことが起きている可能性が高いと考えています。睡眠負債は、免疫システムの働きに影響を及ぼし、結果としてがんのリスクを高める。もし、あなたががんになりたくないなら、日々の睡眠についてよく考え直すべきです」と、シカゴ大学医学部のデービッド・ゴザル教授は言う。
睡眠負債には、肥満や糖尿病、さらには認知症など、さまざまな病のリスクとの関連も指摘されている。
睡眠負債の見極め方とは
では、「睡眠負債」の有無を見極めるには、どうすればいいのだろうか? 睡眠負債に関する実験的な研究を行っている国立精神・神経医療研究センターの北村真吾室長によれば、ひとつの目安は「寝だめ」が起きるかどうかにある。
検証するのはそう難しくない。週末など休日前の夜、光が入らないよう寝室の遮光をしっかりして、時計や携帯など時間がわかるものを近くに置かず寝てみる。次の朝、眠気がなくなるまで、ぐっすりと眠る(眠気が残っている場合は二度寝する)。もし睡眠負債がある場合、普段より睡眠時間は長くなる。こうした睡眠に理想的な環境では、体は自然に負債を返済しようとするからだ。
睡眠評価研究機構の白川氏は「遮光して時間を気にせず寝て、睡眠時間が通常より2時間以上長くなった場合は、睡眠負債があると思ったほうが良い」と語る。
いますぐ自分のリスクについて知りたかったり、仕事や子育てのために「週末実験」をするのが難しかったりする場合でも、睡眠負債リスクを調べられるチェックリストを用意した。
返済は計画的に
知らずにたまっていく睡眠負債。だが「返済」法は単純だ。「これまでより長く寝るようにする」、それだけでいい。
ただし、注意は必要だ。白川氏や北村氏ら専門家は「週末の寝だめに頼ろうとすると生活リズムが乱れ、平日の睡眠に支障が出てかえって負債を増やしてしまう」と口をそろえる。無理して一度に返済しようとするのではなく、「コツコツ地道に返す」のがベストという。
モデルケースは、平日の睡眠時間をいまよりちょっとだけ多めにし、週末も同じ時間をキープすること。1日に必要とされる睡眠時間は年齢によって変わるが、20~50代の働き盛りの世代であれば、目安は1日に7~8時間程度だ。普段の生活を振り返り、睡眠が6時間以下であれば、少しでも延ばせるように暮らしのスケジュールを見直してみたほうがいい。「寝床でのスマホ」「就寝前3時間以内のカフェイン」など、安眠を妨げるとされる生活習慣を避けることも大切だろう。
なお、身体に必要な睡眠時間は、加齢とともに減ることがわかっている。高齢者の場合は、必ずしも7〜8時間にこだわることはない。むしろ「8時間寝なければ」と思いすぎるとそれ自体がストレスになり、不眠につながりかねないといわれている。
睡眠改善で年間15兆円の経済効果も
去年、1冊の報告書が公開された。米国に本部を置く世界的シンクタンク「ランド研究所」が発行したもので、睡眠負債(睡眠不足)によって米国、英国、日本など先進国の経済活動にどのような影響が出ているかを調査した内容だ。
睡眠負債を原因とする「働き手が病気で減る」「仕事のパフォーマンスが落ちる」といった影響がもっとも深刻とされたのは日本だった(GDP比で約3%相当)。影響の大きさは最大で年間1380億ドル(およそ15兆円)にのぼると試算されている。
「睡眠」は、個人の問題だと考えられがちだ。だが、「睡眠負債」は脳のパフォーマンスを低下させるばかりでなく、さまざまな病気のリスクを高めることで個人の幸せはもちろん、社会全体の重荷にもなっている。
いま、長時間労働の弊害が指摘されている。厚生労働省も働き方改革のなかで、「勤務間インターバル制度」(勤務と勤務の間の時間を十分に確保することで、働き手の生活時間や睡眠時間を確保する)の導入を企業に推奨している。睡眠負債のメカニズムや影響の研究が進んできたことで、より多くの人が健康になる「希望の道」が見えつつある。国や企業、そして社会が個人の睡眠にもっと目を向け、「負債」がたまらない環境を整えることに力を注ぐ必要がありそうだ。
NHKスペシャル「睡眠負債が危ない」は、6月18日(日)午後9時~生放送(NHK総合)
わずかな睡眠不足が、まるで借金のようにじわじわ積み重なる「睡眠負債」。命にかかわる病気のリスクを高め、日々の生活の質を下げていることが明らかになった。どう予防・対策するか? 最新研究の取材をもとに迫る。