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過去最多となった「認知症の行方不明者」 ICTと地域の結束で、救うことはできるのか
2020/09/24(木) 17:17 配信
オリジナル昨年1年間、認知症による行方不明の届け出は、全国で延べ1万7479人と過去最多を更新した。死亡者数も460人に上った。超高齢社会に突入し、今後も届け出は増えていくことが予想される。誰もが当事者になり得るこの問題に、どう向き合えばいいのだろうか。妻の外出に悩む夫らに話を聞くとともに、ICT(情報通信技術)の活用事例や「安心して徘徊できるまち」を掲げていた福岡県大牟田市を取材した。(文・笹島康仁、末澤寧史 写真・笹島康仁/Yahoo!ニュース 特集編集部)
ある日突然、外出したまま帰らない
〈一人ででていかないでね!〉
滋賀県野洲市に住む松岡勇さん(81)の自宅玄関のドアノブには、そう書かれたシールが貼ってある。妻・妙子さん(79)が「自分の家」を探して、自宅を出てしまうからだ。ドアの鍵は妻の目の届かないところに隠してある。窓も全て、鍵がなければ内側からでも開かないように作り替えた。
早朝、妻がドアノブをガチャガチャと開けて外に出ようとすることがある。ドアは内側からも鍵が掛かる。閉じ込めているようで心が痛むけれど、命を守るためには仕方がない、と勇さんは考えている。
「交通ルールが分からなくなっていて、車の行き交う道路を赤信号でも渡ってしまう。事故に遭ったら大変です」
妻が初めて行方不明になったのは、7、8年前のことだ。夕刻、何も言わずに自宅を出たまま、夜になっても帰ってこない。不安に思った勇さんの元に、約2キロ離れた住宅会社から連絡が入った。
「真っ暗になって怖くなったのか、明るいオフィスに駆け込んだようです。ほっとしましたが、どうしてこんなことになったのか、あの時は分かりませんでした」
その後も妻が突然家からいなくなることが続き、原因は認知症だと分かってきた。自分や娘たちだけでは捜し切れず、警察に捜索を依頼したことも5度ある。
「今でも油断をすると一人で外に出てしまう。認知症の介護はこんなに大変なものかと、当事者になって初めて分かりました」
届け出数 7年間で倍増
認知症による行方不明者の数は毎年、「最多の更新」が続いている。
警察庁によれば、2019年に出された行方不明の届け出のうち、本人が認知症(疑いを含む)だった人数は延べ1万7479人に達した。このうち245人は昨年中には見つからず、460人(2018年以前の届け出分を含む)が遺体で発見されている。
「認知症による行方不明は今後、確実に増えていきます」
そう訴えるのは、桜美林大学老年学総合研究所の鈴木隆雄所長だ。厚生労働省の推計では、65歳以上の認知症の人は2012年に462万人。それが2025年には約700万人にまで増え、「65歳以上の約5人に1人が認知症」という社会になる。認知症が原因の行方不明者も当然増えていく、と鈴木さんは言う。
認知症と行方不明についての研究は進んでこなかったが、鈴木さんの研究グループは警察庁の全国データや愛知県内の自治体などのデータを分析し、2016年に調査結果を発表した。新たに分かったことがいくつもあったという。例えば、軽度の認知症でも行方不明は起こり得るということもその一つだ。
「よく“徘徊”と言いますが、本人に徘徊しているつもりはありません。過去の記憶と現実との境目があいまいになり、かつて住んでいた家や勤めていた会社に行こうとしてしまう。これはむしろ、一部の記憶が島のように残っているからこそ起こります。運動機能が十分ある方はどんどん歩いていき、夏場などでは脱水症状を起こして亡くなることが多い。実際、死亡例は水場の近くでの発見が多く、川の近くや家の近くの側溝で亡くなった方もいます。逆に寒い時期などでは、低体温症で亡くなる方が多いのも特徴です」
重要なのは、一刻も早く警察に届け出ることだという。
「届け出が遅れれば遅れるほど遠くに行ってしまい、見つからなかったり、亡くなったりする確率が上がります。認知症の方は、いつ(行方不明の)当事者になってもおかしくない。再発率も高い。『そのうち帰ってくる』と安易に考えないでほしいと思います」
大阪で不明 和歌山で発見
思いがけない遠方で保護されるケースも少なくない。自転車や車などで大きく移動していた事例や、九州の男性が東京駅で保護されたケースもある。
高知市に住む羽土文子さん(78)は、大阪府で行方不明になった夫が和歌山県で保護された経験を持つ。16年前の2月のことだ。
64歳だった夫は、会社の元同僚たちと泊まりがけのゴルフに出かけた。その2年前に認知症と診断されていたが、仲間とは40年来の付き合い。宿泊は、何度も泊まっている馴染みの山荘だった。
早朝、夫の元同僚から「ご主人がいなくなり、捜している」との連絡が入った。
あわてて現地に向かっていると、和歌山県の警察署から連絡が来た。宿泊していた大阪府の山荘から数十キロ離れたドラッグストアの前で、うずくまっていた夫が保護されたという。山荘の浴衣を着たままで、履いていたのはスリッパ。その姿で、冬の夜道を歩き続けていたらしい。
その後、夫は突然いなくなったり、住宅街をさまよって通報されたりすることが続いた。保護された時、他人のキャッシュカードを持っていて騒ぎになったこともあった。
羽土さんには強い後悔がある。夫が認知症だという事実をなかなか受け止められなかったことだ。時折異変はありつつも、普通に生活はできていた。何より身体が元気だった。病院から足が遠のき、処方された薬を飲まない日も多かった。
夫は今年で80歳。寝たきりで、特別養護老人ホームで暮らしている。新型コロナウイルスのために面会もままならない日々が続く。一度だけ面会がかなったとき、「変わりはないか」と羽土さんの頭に触れて気遣ってくれたという。
羽土さんは言う。
「もっと早くから治療に専念して、サポートできていたら違っていたのかもしれません」
ICTで救われた人たち
家族が当事者になったら、どうしたらいいのだろうか。
近年、行方不明者の捜索手段として、ICT(情報通信技術)が注目されている。前出の鈴木所長も「行方不明者の捜索のために最も有効なのはGPSなどの活用です」と話す。
スマートフォンのGPSによる見守り機能を使ったり、「ロガー」と呼ばれる小型の装置を持ち物に付けて経路を記録したり。QRコードで連絡先が読み取れるようにする事例もあり、全国の自治体で導入の動きが広がってきた。
冒頭で紹介した滋賀県の松岡さんも、3年前からGPSを活用している。
妻の靴の中に小型の発信器を入れており、娘やケアマネージャーらがスマホやパソコンから居場所を確認できる仕組みだ。実際に使って発見できたこともあるという。
松岡さんは「さまざまな工夫をしてきましたが、GPSならどこにいても見つけることができる。一番役に立ちました」と言う。
しかし、GPSやQRコードも万能ではない。機器の電池が切れたり、本人が持たされるのを嫌がったりするケースがあるからだ。
「ケータイは放り投げるし、連絡先を服に縫いつけてもちぎり取ってしまう」と妻の介護をしてきたある男性は話す。自治体や関係者が広域連携していても、サービスの範囲外へ出てしまうと捜索が難しくなるという問題もある。
こうした課題を解決しようと、「オレンジセーフティネット」(OSN)というシステムの開発も進んでいる。
OSNは、スマホのアプリで各地にいる捜索協力者をつなぐネットワークだ。協力者は事前にサービスに登録する。行方不明者の家族が「見守り依頼」をアプリから発信すると、各地の協力者にその情報が届く。行方不明者の特徴などがアプリを通じて共有され、捜索に活かす仕組みだ。ほかの協力者がどこを捜しているのかを知ることもできる。
「特別な機器は必要なく、全国レベルで機能するメリットがあります」とOSNを主導するソフトバンクの東谷昭秀さんは言う。
「現在の情報共有はメールやFAXが一般的で時間がかかる。瞬時に、広範囲に情報を共有することができれば、より確実に行方不明者を捜せると考えています」
OSNは宮城県東松島市や岩手県紫波町など10自治体が導入済みだ。愛媛県久万高原町では、行方の分からなくなった80代女性を、情報配信から15分ほどで発見した実績もある。
同町では、認知症の人のOSNへの登録がまだ少ないという課題はある。それでも担当者は「役場や警察などを経由せず捜索を始めることができた。情報共有の速さを実感しました」と話していた。
単に技術を導入してもダメ
「単にICTを導入すればいいわけではない」と指摘する人もいる。福岡県大牟田市の福祉事業者などでつくる「認知症ライフサポート研究会」の代表、梅﨑優貴さんだ。
大牟田市では2003年ごろ、市内で孤立死が起きたことをきっかけに地域の見守り活動が活発になった。行方不明となった高齢者役の人を地域で捜す「模擬訓練」も全国に先駆けて着手。「安心して徘徊できるまち」を掲げた。
行方不明者を捜すための「ほっと安心ネットワーク」も構築している。届け出を受けた警察が情報を発信し、周辺自治体も含めた関係機関で共有する仕組みだ。情報のやり取りはFAXが基本だが、有志のSNSグループでも可能な範囲で行方不明者の情報共有を行い、すぐに捜し出せる体制が整っている。
そうした結果、情報伝達に要する時間は短縮され、行方不明者の情報を広く発信する前に発見されるケースも増えた。「同じ地域に住んでいる方が捜すのが圧倒的に速い。地域のつながりを構築した上で、ICTを活用すべきだと思います」と梅﨑さんは言う。
ところが、である。
「安心して徘徊できるまち」を掲げていた大牟田市は、2015年にその看板を下ろした。どうしてだろうか。
「“徘徊”とは、当てもなくうろうろと歩き回ることを指します。最初は啓発のために有効な言葉でしたが、本人は記憶の中にある『家』や『職場』といった目的地を持っている。この行動を理解するために、徘徊という表現をやめようという結論に至りました」
今の課題は「ケアの個別化です」と梅﨑さんは続けた。
「『声をかけよう』『見守ろう』というのが強すぎたかな、ということです。『声をかけられたくない』と言って、家にこもりがちな人が出てきてしまいました。一人ひとり、ケアのあり方は違う。その人に合った支援のあり方を考えていくことが、これからのまちの課題です」
「家族にしかできない介護がある」
最後に、滋賀県大津市の梅本高男さん(78)の経験を紹介したい。
2013年に妻の安子さん(77)が認知症になった。その約1年後から3年間はほぼ毎日、妻が一人で外に出てしまった。GPSも玄関ドアのセンサーも解決には結びつかない。家を出て9時間も見つからなかった日もあった。
「いっそ一緒に出歩いてみよう」と外に出たこともある。
「でもね、その時の妻にとって、僕は夫じゃない。ついてくる怖いおっちゃん。連れ帰ろうとして『何すんねん!』と叩かれたこともあります」
その後も認知症は進み、「生活の全てが介護。『手にかけてしまうかも』というほど追い込まれ、精も根も尽き果てた」というところで、妻は特別養護老人ホームに入所できた。それによって、妻との過ごし方を考える余裕ができたという。
振り返れば、前兆は早くからあった。食器が下駄箱にあったり、携帯電話が冷凍庫に入っていたり。当時は理由が分からず、強い口調で妻を怒鳴ることもあった。
でも、今は違う。
「遅くはなってしまったけれど、家族にしかできない介護のやり方を考えられるようになったんです。お昼にコンビニ弁当を買ってね、妻のところで一緒に食べるんです。そのときに、昔の思い出を話すんですよ。作ってくれたあのおかず、こんなのがおいしかったね、とか。定年後に2人で出かけた北海道旅行の写真を2、3枚持って行ったりしてね。楽しかったね、と」
認知症が進んだ安子さんとは、昔のような会話はできない。それでも、高男さんの話に耳を傾け、うなずいてくれる。記憶はなくても心は変わらない、と感じる。
「習慣がなかったので、恥ずかしかったけど」と言って、梅本さんは続けた。
「スキンシップも取るようにしているんです。ある時、ハグをしてみたんです。そしたらね、ぎゅっと抱きついて離れない。『みんな見てるし、恥ずかしい』と言ってもやめへんかったことがあってね。手をつないで散歩をしたりもしています」
今は新型コロナウイルスの感染防止のため、これまでのような面会はできない。だから、ホームの職員にスマホを渡して動画を撮ってもらったり、ガラス越しで面会させてもらったり。2人の時を過ごせるよう工夫を重ねている。
梅本さんは言う。認知症になっても、家族であることに変わりはない、と。
「毎日ケンカばっかりしていた妻が、ある日突然いなくなる。寂しいですよ。たまたま認知症になって、今は住んでいる場所が違うだけ。彼女は覚えていなくても、妻であることには変わりはないじゃないですか。だからね、できることはしたいんです」
笹島康仁(ささじま・やすひと)
記者。1990年、千葉県生まれ。高知新聞記者を経て、2017年に独立。高知県を拠点に取材を続けている。Frontline Press所属。
末澤寧史(すえざわ・やすふみ)
ノンフィクションライター・編集者。共著に『「わたし」と平成』(フィルムアート社)、『廃校再生ストーリーズ』(美術出版社)、『東日本大震災 伝えなければならない100の物語⑤放射能との格闘』(学研教育出版)ほか。Frontline Press所属。