亀山亮

「死んだ真似で生き残った」――沖縄の集団自決、生存者が語る75年前の悲劇

8/11(火) 9:37 配信

太平洋戦争では、日本で唯一の地上戦が沖縄で繰り広げられた。米軍が上陸した際、沖縄本島や慶良間諸島では集団自決が行われた。最も自決した人が多かった渡嘉敷島では、村長の号令のもと329人が命を落とした。ただし、手榴弾の不発などによって一命を取り留めた人もいる。あの集団自決の現場では何が起き、どのように生き抜いたのか。75年前を振り返ってもらった。(文・写真:写真家・亀山亮/Yahoo!ニュース 特集編集部)

コロナで中止された渡嘉敷島の慰霊祭

5月1日から68日間、新型コロナウイルスの新規感染者数ゼロが続いた沖縄。だが、7月に入ると、在日米軍基地を含む県内で感染者が急激に増加。さらなる感染拡大への恐れと自粛の空気が強まりつつある。例年であれば夏休みの観光客で賑わう那覇市内の国際通りも、人通りが減っている。

今年はそんなコロナ禍の影響で、生まれ故郷の島へ帰れなかった人がいた。
「(3月28日の渡嘉敷島の)慰霊祭、毎年行ってたけど、今年は式典が中止された。だから、(沖縄本島から)渡嘉敷が見える海に行って、一人でお祈りした。『みなさん、安らかに眠ってちょうだい』って」

沖縄本島に暮らす大城静子さん(87)はそう語る。大城さんは戦争当時、渡嘉敷島での集団自決の場を体験した一人だ。

大城静子さん。「(集団自決の時)逃げようとは思わなかった。でも、殺されるのは怖かった」

75年前の春、沖縄では米軍との地上戦が展開された。3カ月間で日米合わせて20万人以上、沖縄県民では4人に1人が犠牲になった。米軍が初めて上陸したのが、那覇市から西に30キロほど離れた慶良間諸島だった。1945年3月23日、空襲などが始まり、26日朝に慶留間島や座間味島に米兵が上陸、住民は各地の集落を追われた。

その直後に起きたのが、住民同士による集団自決(強制集団死)だった。

慶良間諸島では、慶留間島で53人、座間味島で177人、渡嘉敷島では329人が自決した。犠牲者の多くは女性や子ども、老人で、大城さんの家では、祖母、母、生後まもない妹の3人を亡くした。

データは沖縄タイムス、「沖縄戦を知る事典」、「沖縄・慶良間の『集団自決』」をもとに編集部で作成(図版:ラチカ)

昨年、大城さんは小学生の孫たちから戦争体験を尋ねられた。家族や親族に関わる凄惨な出来事のため、自分の体験は長いこと語ってこなかったが、その機会から体験を語るようになったという。

「今、しゃべっとかないと、誰も戦争のことを知らないままになってしまうからね……」

大城さんは、自分自身に言い聞かせるように静かに話しだした。

海の水面が見えないほどの米軍艦船

1945年当時、大城さんは渡嘉敷島の南部の集落、海岸沿いの阿波連(あはれん)に両親と祖父母、きょうだいの計10人という大家族で暮らしていた。6人きょうだいの長女で12歳だった。半農半漁で家畜も飼う、豊かな生活だったという。

「私はおばあ(祖母)に可愛がられてね。休みの日には、いつも畑に一緒に行っていた。当時は電気もないから、ランプやカマドの火で勉強してたんです」

渡嘉敷島は周囲25キロほどの南北に細長い島。南側の小さな集落である阿波連では、誰もが知り合いだったと振り返る。

慶良間諸島の海。大小20あまりの島がある

「自分ちは大きな家だったので、いつからだったか、日本兵が6、7人、一緒に住んでいた。学校も兵隊たちが宿舎に使っていたから、私たちは校舎で勉強できなくてね。大きな木の下で勉強していたときもありました」

海上特攻の秘密基地があったため、慶良間諸島に日本兵がいたが、まだ穏やかな日々だった。そんな平穏が破られたのが1945年3月23日のことだった。

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