太平洋戦争では、日本で唯一の地上戦が沖縄で繰り広げられた。米軍が上陸した際、沖縄本島や慶良間諸島では集団自決が行われた。最も自決した人が多かった渡嘉敷島では、村長の号令のもと329人が命を落とした。ただし、手榴弾の不発などによって一命を取り留めた人もいる。あの集団自決の現場では何が起き、どのように生き抜いたのか。75年前を振り返ってもらった。(文・写真:写真家・亀山亮/Yahoo!ニュース 特集編集部)
コロナで中止された渡嘉敷島の慰霊祭
5月1日から68日間、新型コロナウイルスの新規感染者数ゼロが続いた沖縄。だが、7月に入ると、在日米軍基地を含む県内で感染者が急激に増加。さらなる感染拡大への恐れと自粛の空気が強まりつつある。例年であれば夏休みの観光客で賑わう那覇市内の国際通りも、人通りが減っている。
今年はそんなコロナ禍の影響で、生まれ故郷の島へ帰れなかった人がいた。
「(3月28日の渡嘉敷島の)慰霊祭、毎年行ってたけど、今年は式典が中止された。だから、(沖縄本島から)渡嘉敷が見える海に行って、一人でお祈りした。『みなさん、安らかに眠ってちょうだい』って」
沖縄本島に暮らす大城静子さん(87)はそう語る。大城さんは戦争当時、渡嘉敷島での集団自決の場を体験した一人だ。
75年前の春、沖縄では米軍との地上戦が展開された。3カ月間で日米合わせて20万人以上、沖縄県民では4人に1人が犠牲になった。米軍が初めて上陸したのが、那覇市から西に30キロほど離れた慶良間諸島だった。1945年3月23日、空襲などが始まり、26日朝に慶留間島や座間味島に米兵が上陸、住民は各地の集落を追われた。
その直後に起きたのが、住民同士による集団自決(強制集団死)だった。
慶良間諸島では、慶留間島で53人、座間味島で177人、渡嘉敷島では329人が自決した。犠牲者の多くは女性や子ども、老人で、大城さんの家では、祖母、母、生後まもない妹の3人を亡くした。
昨年、大城さんは小学生の孫たちから戦争体験を尋ねられた。家族や親族に関わる凄惨な出来事のため、自分の体験は長いこと語ってこなかったが、その機会から体験を語るようになったという。
「今、しゃべっとかないと、誰も戦争のことを知らないままになってしまうからね……」
大城さんは、自分自身に言い聞かせるように静かに話しだした。
海の水面が見えないほどの米軍艦船
1945年当時、大城さんは渡嘉敷島の南部の集落、海岸沿いの阿波連(あはれん)に両親と祖父母、きょうだいの計10人という大家族で暮らしていた。6人きょうだいの長女で12歳だった。半農半漁で家畜も飼う、豊かな生活だったという。
「私はおばあ(祖母)に可愛がられてね。休みの日には、いつも畑に一緒に行っていた。当時は電気もないから、ランプやカマドの火で勉強してたんです」
渡嘉敷島は周囲25キロほどの南北に細長い島。南側の小さな集落である阿波連では、誰もが知り合いだったと振り返る。
「自分ちは大きな家だったので、いつからだったか、日本兵が6、7人、一緒に住んでいた。学校も兵隊たちが宿舎に使っていたから、私たちは校舎で勉強できなくてね。大きな木の下で勉強していたときもありました」
海上特攻の秘密基地があったため、慶良間諸島に日本兵がいたが、まだ穏やかな日々だった。そんな平穏が破られたのが1945年3月23日のことだった。
米軍の艦船が「海の水面が見えないほど」押し寄せ、空襲と艦砲射撃を慶良間諸島で始めた。
大城さんの家族は激しい攻撃の音が聞こえると、家の近くに掘った防空壕に避難した。だが、27日朝、渡嘉敷島にも米軍が上陸してきた。島民は、北部にある日本軍陣地、北山(にしやま)へと集まるよう、日本軍の命令を受けた防衛隊(防衛招集という名目で動員された住民)や駐在らから呼びかけられた。
雨が降る夜、大城さんは家族9人で集落の人たちとともに北山に向かって山を歩いていった。父親は防衛隊の活動に出ていた。また、祖父は途中、腹が痛いと山中で別れることになった。
肌寒かった3月28日の未明、大城さんの家族は北部の日本軍陣地の近くにある小さな広場にたどり着いた。家族、親戚同士で集まり、固まっていた。あの時はまだ自分たちが死ぬことは考えていなかったと大城さんは言う。
「持ち物は何もなく、裸足でした。狭い広場に100人以上の人がいた。よくこれだけの人が入ったと思うほどね。多かったのは年寄りと子どもと母親たち。(私は)家族や親戚、30人ぐらいに囲まれていたね」
夜が明けると、思わぬ事態になった。午前10時すぎ、渡嘉敷村の村長が「天皇陛下万歳!」と叫ぶと、周囲の人たちも斉唱した。その直後、集団自決が始まった。狭い広場の中、あちこちで手榴弾の爆発音が響き、多くの人が次々と吹き飛んでいった。
しかし、手榴弾の半数以上は不発だったという。驚きと恐怖に怯えながら、大城さんも覚悟をしたが、大城さん家族の手榴弾も爆発しなかった。
手榴弾は破裂しなかった
「うちのところは、親戚のおじさんが手榴弾を持っていた。でも、信管抜いたのに破裂しなかった。いろいろやっても、爆発しない。仕方ないから、若い人たちはその手榴弾から火薬を出して食べていた。私たちも『食べなさい』と言われた。でも、食べらんない。ひと口も食べられなかった」
周囲に無残な死が広がるなか、手榴弾が破裂しなかった住民たちはパニックに陥り、あらゆる手段を使って家族を殺すことになった。大城さんのおじはバットより少し細い枝をもつと、家族や親族を思い切り叩き始めた。大城さんも首の付け根を激しく叩かれた。首の付け根には当時の傷の痕がまだ残っている。
「うちの母は棒でバンバカ打たれて、すぐ死んでしまった。いとこの家族も全滅だ。だから、お父さんの親戚、お母さんの親戚、一人も残っていない。だけど、私は倒れて、死んだ人の顔のところに顔をくっつけて死んだ真似をした。だから私は生きてるの」
短剣で殺す人もいた。鍬(くわ)で殺す人もいた。自分で首を吊って死ぬ人もいた。
そんな中、弟をおぶっていた妹は、弟から「ねえねえ(お姉ちゃんの意)、怖い、逃げるよ」と言われ、2人で逃げていった。2人はそれきり帰ってくることはなかった。広場では、祖母、母親、生後まもない妹の3人が亡くなった。後に「玉砕場」と呼ばれた広場で生き残ったのは、大城さんと2人の妹の3人だった。
しばらくして米兵たちがやってくると、大城さんは死体の山の中から救出された。
「おばあも眠っているようだった。だから、髪を撫でて『おばあ、生きてるねー』と声をかけた。だけど、もう亡くなっていたね」
阿波連の集落では58世帯、150人が一家全滅していた。
妹たちと座間味島に設置された米軍のキャンプに収容された。当時の大城さんは喉が腫れ、水を飲むと鼻から出てきてしまい、しばらく起き上がることも食事をとることもできなかった。
終戦後、避難の途中ではぐれた祖父とも再会した。また、防衛隊で出ていた父とも再会することができた。だが、せっかく再会したにもかかわらず、父はそれからまもなくダイナマイト漁(不発弾を利用して海に爆発物を投げ込んで浮かんできた魚を捕る漁)の事故で亡くなってしまった。
「戦争が終わって30日目だった。あの日のことは忘れられない」
日本兵から聞かされてきた戦陣訓
大城さんは祖父と残った2人の妹たちのため、「自分が母親がわりになって」畑作業などをして必死に支えた。祖父は戦後、「自分がその場にいたら、家族は死なさなかった」と言っていたが、大城さんはその言葉を素直には受け取れなかった。
「あの時、もしおじいがいたら、自分たち家族は全滅してたと思う。男の人たちが率先して家族を殺してたんだから」
大城さんはその後、25歳で結婚して沖縄本島に移り住んだ。集団自決のことは、ずっと心の大きな重石になってきた。
「毎年、玉砕があった3月28日が近づくと、夜も寝られなくなる。寝ても棺桶が並んでいる夢を見るし、風邪をひいたり、体調が悪くなったりする。必ず思い出す」
米兵が上陸する以前、もし米兵に捕まると拷問や強姦などひどい目にあうと日本兵から聞かされてきた。島の住民たちは米軍が迫ってくる中、日本軍による「軍官民共生共死」(軍、役場、住民も一体となって死ぬまで戦う)という方針や、「生きて虜囚の辱めを受けず(捕虜になるくらいなら死を選ぶの意)」という戦陣訓の教えによって、自死を迫られた。
「沖縄も慶良間も日本軍がいなかったら、こんなになっていなかった。たくさん死んだよ。うちの集落も半分以上が死んだよ。この戦争で何十万人と人が亡くなった。これからの時代、戦争はなくなってほしい」
軽音楽が流れていた米艦船
同じ渡嘉敷島の北部の渡嘉敷集落で暮らしていたのが、現在沖縄本島に暮らす兼城光秀さん(85)だ。当時10歳、渡嘉敷国民学校初等科4年生。4人きょうだいで家族6人、やはり半農半漁の生活だった。
1945年3月下旬、突然慶良間海峡に現れた膨大な数の米軍の艦船に兼城さんは驚いた。
「ただ、意外だったのは、米軍の船からは軽音楽が流れてきて、のんびりした感じだったこと。こっちは怖くて死ぬ思いだったのに」
まもなく空襲、続いて艦砲射撃が始まり、集落の家々は焼き尽くされた。兼城さんの両親は、逃げ込んだ防空壕の中から焼け落ちた家を見て泣いていた。3月27日、米軍は渡嘉敷島に上陸した。
渡嘉敷集落の人たちは、防衛隊や駐在らの指示で日暮れを待って北山(にしやま)に向かいだした。大雨の後のぬかるんだ泥の山道。闇夜の中、兼城さんは姉(20)の腰紐をつかみ、裸足で歩いていった。着いてみると、広場には多くの島民が集まっていた。
翌朝10時すぎ、日本軍から伝令が来ると、村長の「天皇陛下万歳」が響き、近所の防衛隊員が持ってきた手榴弾が一個ずつ渡された。兼城さんも親戚、家族そろって円状にロープで巻かれ、頭から着物をかぶせられた。幼かった兼城さんはその時、自決が怖いとは思わなかったと言う。
「それまで日本兵から『米軍に捕まると鼻を削がれたり、強姦されたりした末に殺される』と伝えられていたんです。それはもう、みんな米兵を怖がっていた。それなら自決のほうがいい、当然だと思っていました」
まもなく広場のあちこちで手榴弾の爆発音が轟いた。「わー!」という悲鳴や低い呻き声、女性の甲高い叫び声、子どもの泣き声。兼城さんのいた輪でも、近所の防衛隊員が手榴弾を爆発させようとした。だが、爆発しなかった。
「印象では、広場の半分くらい爆発しなかったです。でも、命令でしたから必死でした。手榴弾を持って、鍬の刃の台座部分で一生懸命叩いているわけです。でも爆発しなかった。それで諦めて逃げ出したんです」
生き残った人たちはパニック状態となり、近くの日本軍陣地にどっと流れ込んだ。ところが、日本兵たちは住民を助けるどころか、日本刀を抜き、「住民はここからすぐ出て行け!」と斬りかからんばかりの形相で怒鳴った。民間人が来て米兵に所在が知られるのを恐れていた。
行き場を失った住民は夜、別の山を越えた谷間に行き着いた。兼城さん一家は谷の河原に面した山の急斜面に逃げ込んだ。
「自分たちが逃げたところは、足を踏ん張らないと座っていられないような相当な傾斜だった。(砲撃で)死んだ遺体がみんなこっちに転がってきて、谷間の川が埋まるぐらい。あそこは第2の玉砕場のようなもんでした」
谷間に広がっていた遺体と血の海
自決の広場では死んでもいいと思っていたが、逃げ出したあとは死にたくないという気持ちが強くなっていった。だが、砲弾の音はだんだんと自分たちのいる谷に迫ってきた。「ヒルヒルヒュー」と音が近づき、ついに谷間に砲弾が直撃した。崖の上段にいた父親は下段にいた兼城さんや姉、妹らに覆いかぶさるように盾になった。兼城さんは助かったが、かばった父親は亡くなった。
「僕も砲弾で背中を怪我した。水をほしいと言ったら、姉が谷間の川から手に汲んできてくれた。あれはおいしいと思った。でも、夜が明けて、川を見たら血の海、血水でした」
おなかが抉り取られ、唸っている人、頭の半分が割られている人、母親の手を枕に幼児が眠るように転がっていた親子……。谷間には無数の遺体や死に近い人が転がっていた。
その後、8月15日の終戦まで5カ月近く兼城さんたちは山中で生活した。十分な食料がなく、小児麻痺だった弟(6)は終戦近くに栄養不良で衰弱し亡くなった。
兼城さんは戦後中学を卒業すると、高校進学の夢を諦めてカツオ船に乗り、尖閣諸島へも漁に行った。20歳の頃、沖縄本島に渡ると、土木工事やパン職人、タクシー運転手など転職を繰り返しながら、4人の子どもの父として家族の生活を支えた。
現在、兼城さんには孫が14人、ひ孫が6人いる。週3回透析を受ける身だが、毎日日記を書いている。昔の体験を書き続けることが唯一の楽しみだという。
ただ、兼城さんの孫(28)は祖父の話に静かに耳を傾けつつも、こうした祖父の話を「リアルには感じられない」と打ち明けた。
「僕らの世代はみんなそうだと思いますが、75年経った今の沖縄では、話を聞いても何か映画の映像を見ているようで。沖縄は小さい頃から学校の平和学習でずっと聞いているから、学校で勉強する事柄のような感じもしてしまうんです」
体験を語ることの重み
集団自決から生き残った人たちは、戦後、家族同士が手にかけあう壮絶な体験を誰にも話すことができず、今なお固く口を閉ざす人も多い。
慶良間諸島出身で集団自決を経験し、家族6人を亡くした女性は「いまでも毎晩、ベッドに横たわるとあの時のことを思い出す」と語る。あの凄絶な体験は、その後の人生にも決定的な影響を与えた。かつて、「今話さなければ、あの時のことが分からなくなってしまう」という声に押されて、メディアに集団自決の体験を語っていた。
だが、今回の取材後、掲載を控えてほしいと連絡を寄せた。
「自分の体験を話すと、『まだそんなことを話しているのか』と言われるようになった。今、また話したら、何を言われるかわからない。いつまでもくよくよして生きたくない。残った人生をこれからは前を向いて生きたいよ」
一方で、戦争体験は必ず語り継がれてほしいと考える人たちもいる。前出の大城静子さんの次男の妻(52)は「お母さんが生き残ったから、自分たちの家族は存在している」と語る。
「命のバトンをつないでくれている。子どもたちにも『おばあがいたから自分たちがいる』って、言っています。生き残れたのは、こういう体験があったから、というのは伝えていくべきことだと思うんです。だから、自分たちでも語り続けていこうねって思います」
亀山亮(かめやま・りょう)
1976年生まれ。1996年からサパティスタ民族解放軍支配地域など中南米で撮影する。2000年、パレスチナでの撮影中、イスラエル国境警備隊にゴム弾で撃たれ、左目を失明。2003年から8年間、アフリカ各地の紛争地域を撮影した写真をまとめた『AFRIKA WAR JOURNAL』を2012年に発表。同写真集で第32回土門拳賞を受賞。公式サイト